幕末まで名乗り続けた寧々の縁者の子孫
さて、そこまで苦心して豊臣姓を普及させた秀吉だったが、武家関白は秀吉・秀次の2代で終わる。
さらに慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が覇権を握ると綻びが生じ始める。慶長5年までに約130人いた豊臣姓の武将たち(上杉景勝と直江兼続の主従、前田利家・利長の父子が名乗ったケースなど含む)が、同時に与えられていた羽柴の名字を、まず捨て始めるのである。
次に大坂冬・夏の陣(慶長19〜20/1614〜15)で豊臣秀頼が没すると、豊臣の「姓」を名乗り続ける大名は、ほぼ皆無となった。
細々とだが、豊臣として生き永らえた者もいた。秀吉の妻・寧々(高台院)の兄弟の子孫には、名字こそ羽柴から木下に改めたものの、「姓」は豊臣のままだった者がいたことが『寛政重修諸家譜』(江戸幕府が編纂した大名・旗本の家譜集)でわかる。
寧々の縁者ということから、徳川幕府に豊臣を称することを許され、備中(岡山県)足守藩主、豊後(大分県)日出藩主として、幕末まで存続した。
石高は両藩とも2万5000石で、決して大藩とはいえない。城は持たず、藩庁は陣屋。それでも地道に生きたのは、秀吉没後に中央の政治と距離を置き、現実路線を歩いた寧々の処世術が家訓として伝わっていたのではないか、と想像してしまう。
寧々という女性の持っていた威光は、もっと評価して良いのではないかと思う。
参考図書
・草刈貴裕著・訳『現代語で読む豊臣秀吉軍記[天正記]』(戎光祥出版、2026年)
・堀越祐一著『秀吉と豊臣一族研究の最前線』所収『「羽柴」「豊臣」には、どんな意味があるのか』(山川出版社、2025年)
・『「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」村川浩平 駒沢史学49号』(駒沢史学会、1996年)
・高澤等・森岡浩監修『決定版 面白いほどよくわかる!家紋と名字』(西東社、2023年)
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