※本稿は、奥山真司『戦略論入門 自衛隊幹部学校 講義録』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
就活の一環として提出した
孫子は兵法書である『孫子』(「孫子兵法」)を書き残しています。紀元前500年代、春秋戦国時代の斉の国(現在の山東半島)出身の人物です。
当時の斉は土地や気候の影響で作物が育たず、農業では食べていけなかったので商人になる人がほとんどでした。
また、斉は軍人を多く輩出した地方でもあります。当時の中国大陸では、中華思想の中心となる中原から見て、朝廷に従わない東西南北の地をそれぞれ「四夷」と位置付けていました。それぞれ東夷、西戎、南蛮、北狄と呼ばれていましたが、斉は東夷に当たります。この「夷」は弓を背負っている人を意味する漢字であり、『孫子』にも弓のたとえや描写(勢いという概念など)が頻繁に登場します。
孫子は地元では武官に採用されなかったため、呉国へ行き、王となったばかりの闔閭に任官を願い出ました。その時すでに『兵法』を完成させていた孫子は、王にもこれを献上しており、その内容は13篇にわたる、いわば「戦争における戦い方のパンフレット」でした。「私は戦いに関するこれだけの知識・知見がありますので、ぜひ貴国で雇ってください」と就職活動の一環として提出したのです。
王の目の前で妾の女性を斬首
これを読んだ王が宮廷に孫子を呼び出した際の、有名なエピソードが残っています。王は「書いてあることは立派で感銘を受けたのだが、本当に軍を統率できるのか、その力を実際に会って証明させよう」と考えたのでしょう。
すると孫子は「王の妾の女性180人をここに連れてきてください」と要請します。実際に女性たちが集まってくると、これを二つの部隊に分け、それぞれ王の一番のお気に入りを隊長に任命しました。そして女性たちに、「前と言えば胸を、左と言えば左側、右と言えば右側、後ろと言えば背側を見よ」と命じます。女性たちは「わかりました」と答えたものの、実際に号令を出すと、女性たちは笑うばかりでこれに応じませんでした。
すると孫子は、「命令が不明確なために、兵隊に徹底できないのは将の罪である」といって何度も命令を出すのですが、やはり女性たちは笑っているばかりで従いません。すると何度目かに、「命令がすでに明確なのに兵隊が実行しないのは、指揮官の罪である」と言って、王が制止するのも聞かずに隊長に任命した二人の妾の女性の首を斬ってしまったのです。

