久秀は大和の城を次々とわがものに

南北二つの峰に築かれた巨大な山城は、大和でも最大級の中世城郭、久秀が大和支配の拠点とした信貴山城に匹敵する規模だった。現地の国衆から力で奪い取ったこの城は、まさに「久秀支配の大和」を象徴する城だといえるだろう。

信貴山城の縄張図
撮影=今泉慎一(風来堂)
信貴山城の縄張図(現地案内板より)
貴山城
撮影=今泉慎一(風来堂)
信貴山城。龍王山城と同様に切岸や堀切を駆使した土の城

順慶は成長すると、松永久秀に対抗する勢力と結び、少しずつ勢力を回復してゆく。それはすなわち、幼い自分が家督を継いだ筒井家を脅かし、自分自身を大和から追い出した宿敵・久秀との争いだった。

対信長戦略における決定的な出遅れ

1568(永禄11)年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、畿内の政治情勢は大きく変化する。久秀も信長に従った。しかし、順慶は情勢を見誤り、信長へ従う意志を見せる機会が遅くなってしまう。

信長は久秀の実力を評価し、大和支配を任せるなど重用。順慶から見れば、最大の宿敵が、飛ぶ鳥を落とす勢いの信長から後ろ盾を得たことになる。それでも、劣勢の中で順慶は戦い続けた。一時は居城・筒井城を失うも奪還。そして1571(元亀2)年に至り、明智光秀の斡旋により信長に臣従した。

一方で信長と久秀の関係が完全に崩れる。1577(天正5)年、久秀は織田信長に反旗を翻し信貴山城に籠もる。信長は討伐軍を派遣し、そのなかには筒井順慶も加わった。「豊臣兄弟!」でも描かれた展開で、ここで、長年にわたる因縁に決着がつく。

10月10日、信貴山城は落城。松永久秀は自害した。順慶にとっては、まさに長年の雪辱を果たした瞬間だ。信長から「大和国中一円存知」を認められ、大和一国の支配を任された。

信長の命に従い、順慶は郡山城以外の城を破却する。寺社や国衆など諸勢力が割拠する時代から、ひとつの城を中心に一国を統治する時代へ。その拠点として順慶が改めて築城を始めたのが、郡山城だった。順慶の時代に奈良中の大工を集め天守を急造したことなどが、興福寺の僧侶が書いた『多聞院日記』から確認できる。

郡山城は丘上の平山城
撮影=今泉慎一(風来堂)
郡山城は丘上の平山城。奈良盆地を一望できる

1580(天正8)年、順慶は筒井城(奈良県大和郡山市筒井町1486-1)から郡山城へ移る。こうしてようやく大和国を統一し、念願叶ったかに思える。だが順慶の人生には、さらなる大きな試練が待っていた。