秀吉は順慶の子に非情な国替えを
二代に渡って豊臣政権に貢献した筒井家だったが、1585(天正13)年、非情な指令が下る。大和から伊賀へと転封を言い渡されたのだ。父祖伝来の地を取り返し、一国を統べるまでになった順慶。その後を継いで大和の領主となり意気揚々としていただろう定次。筒井家の夢はあえなく消える。
そこに取って代わる形で赴任したのが、秀長だった。「豊臣兄弟!」では、秀長の大和支配の過程で、農民との諍いなども描かれる。あるいはその原因のひとつは、戦乱の大和に平穏をもたらした地元出身の筒井家を、無下にも他所へと追いやった決断にもあるのかもしれない。
父祖伝来の地を失った筒井家の“その後”
最後に、その後の筒井家の行く末について触れておきたい。定次は伊賀一国を与えられ、伊賀上野を新たな本拠として伊賀上野城を築城。秀吉の死後も生き残った。関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に属し、戦後も所領を安堵された。
ところが、1608(慶長13)年運命が暗転する。定次は家臣の中坊秀祐から「不行跡」を訴えられ改易。伊賀20万石を失ったのだ。かつて大和一国を治めた筒井家は、大和を失い、今度は伊賀まで失ってしまった。
定次は、磐城平藩主・鳥居忠政に預けられ、そこで約7年間を過ごすことになる。大和から伊賀へ。伊賀から岩城へ。筒井家は、時代と共に故郷から一歩ずつ遠ざけられていった。
そして、1614(慶長19)年の大阪冬の陣、翌1615(慶長20)年の大坂夏の陣。定次自身が大坂城へ入ったわけではないが、筒井家旧臣の一部が大坂方に属した。結果、徳川政権から定次に死が命じられた。1615年3月5日、定次は自害。嫡男・順定もまた命を絶った。こうして、大名としての筒井家は歴史の表舞台から消えてしまった。
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