※本稿は、齊藤貢『なぜ米国はイランに負けたのか』(文春新書)の一部を再編集したものです。
石油がつないだ日本とイランの絆
奈良の正倉院の御物に、ササン朝ペルシャ時代(226年~651年)に遠路はるばるイランから伝来したとされる「白瑠璃碗」と呼ばれるガラスのお碗があります。これと瓜二つのお碗が、テヘランの国立博物館にも展示されています。
私がテヘランで大使として、日本とイランの関係についてスピーチする際には、1000年以上続く両国の長い友好関係の証しとして、奈良とテヘランにある瓜二つのガラスのお碗の話をよく使いました。
より近い時代において、両国の関係を象徴するのは、「日章丸事件」です。1953年に、日章丸が英国の海上封鎖を突破して、イラン産原油を日本に持ち帰ったというエピソードが、両国を固い絆で結び付けています。実際、日章丸事件以降、イランからの原油輸入は急増し、1970年には、イラン産原油が日本の原油輸入全体の40%を占めるほどになりました。
その後、1973年の第一次オイルショックの教訓から原油供給元の多角化が図られ、1977年には、イラン産原油のシェアは17%にまで減少しましたが、それでもイランは、長きにわたって、サウジアラビアに次いで重要な原油の供給元であり続けたのです。
アメリカとの挟み撃ちで原油輸入がゼロに
1979年のイラン革命、そして1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争の期間中は、イラン側の輸出態勢が十分でなかったので、一時期、シェアは低下しましたが、1989年~2007年の約20年、イラン産原油は10%前後のシェアを維持し、長らく日本にとって第3位か第4位(上位2カ国はサウジアラビアとUAE)の原油供給元でした。
しかし、2002年に「イラン核開発問題」が生じたことで、状況は一変します。イラン産原油の輸入を続ける日本に対して風当たりが強くなるなかで、2008年以降、イランのシェアは徐々に落ちていき、2018年には第6位の4.2%まで低下しました。
さらに2018年8月、トランプ政権によって米国の対イラン制裁が再開され、イラン産原油の禁輸措置が科されると、翌年のイラン産のシェアはわずか1.5%となり、現在は「輸入ゼロ」という状態です。
しかし、わずか20年前まで、イラン産原油は10%程度のシェアを保ち、日本にとって原油の重要な安定供給元だったことを忘れるべきではありません。1979年の米国大使館占拠・人質事件以来、日本のイラン産原油の輸入が、米国との間で摩擦要因となるのは、避けられないことでした。

