没落の一途をたどった長宗我部家
元親の死後、盛親が家督を継いだ。しかし、信親が生前から一族や家臣の信望を集め、父・元親からも大きな期待を寄せられていたのに対し、盛親の家督相続には反対する家臣も少なくなかった。
兄の死によって想定外の当主となった盛親は、家中の亀裂を抱えたまま長宗我部家を率いることになる。そして1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで西軍に属した盛親は、敗戦後に土佐を没収され、長宗我部家は改易となった。
余談だが、元親の息子にはもう一人、悲運の男がいた。香川家の養子となっていた次男・親和だ。四国攻めの終結後、臣従の証しとして、しばらく秀吉の弟・秀長の元で人質生活を送っていた親和。信親の戦死時には既に土佐に戻っており、次男という意味でも家督を継ぐべき立場にあった。秀吉から元親に宛てた朱印状でも、親和が推されていたという。
にもかかわらず、元親は四男・盛親を後継に指名。親和はほどなく病死。長宗我部家累代の墓には葬られなかったという。
土佐の一豪族から四国の覇者へと成長した長宗我部家。しかし、将来を期待された嫡男・信親の22歳での戦死は、後継者問題と家中の対立を招き、やがて家そのものの没落へとつながった。戸次川の戦いは、長宗我部家の運命を変えた大きな分岐点だったのは疑うべくもない。
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