「豊臣兄弟!」(NHK)では秀吉が天下をほぼ手中に収め、バテレン追放令などの政策を実行する。古城探訪家の今泉慎一さんは「高槻城主だった高山右近は、キリスト教信者ゆえに領地を取り上げられ、最終的にはフィリピンで死去した」という――。

秀吉に国外追放されたワケではない

第27回:芥川城(大阪府高槻市)・高岡城(富山県高岡市)

高山右近といえば、戦国時代、キリスト教に入信したキリシタン大名としてよく知られている存在だ。父親の高山飛騨守の代からの信者で、母も妻も洗礼を受けていた。その右近にとって、1587(天正15)年6月に秀吉が発した「バテレン追放令」は、青天の霹靂へきれきだったに違いない。

落合芳幾画「太平記英勇伝九十二 高山右近友祥」
落合芳幾画「太平記英勇伝九十二 高山右近友祥」(東京都立図書館所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉は宣教師の国外退去を命じるだけでなく、キリスト教をめぐる大名の行動にも圧力をかけた。右近は棄教を求められるが拒否。結果、播磨国の明石6万石(12万石とも)の領地を没収され、大名の地位を失ってしまう。

右近は、本能寺の変後、秀吉の天下人への道のりの中で、数々の戦いで貢献している。山崎の戦いで先鋒を務め、その後の賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州征伐など、多くの戦いに参加。いわば豊臣政権の立役者の一人だといっていい。

にもかかわらず、この仕打ち。しかし右近はその決定に逆らうことなく従う。最終的に、右近が生涯を終えたのはフィリピンのマニラ。そのため、「秀吉のバテレン追放令によって、右近は国外追放となり、帰国は叶わず生涯を終えた」と思われがちだが、実は、ことはそう単純ではない。

実は、国外追放までの「知られざる後半生」があるのだ。

出自とキリシタンとしての実績

右近は1552(天文21)年ごろ、摂津国(現在の大阪府北部)に生まれたとされる。高山家はもともと、摂津国(現在の大阪府北部)を拠点とする国人領主。戦国時代後期には、三好家の重臣・松永久秀に従っていた。

三好家が徐々に衰退してゆくなか、1568(永禄11)年、足利義昭を奉じて信長が上洛。義昭は第15代将軍に任じられる。その際、摂津の守護の一人・和田惟政から芥川城(大阪府高槻市原)の城主を任されたのが右近の父、高山友照だった。

芥川城の大手石垣
撮影=今泉慎一(風来堂)
芥川城の大手石垣。中央部が崩壊しているが両側の巨石がかつての姿を今に伝えている
芥川城・主郭石垣からの眺望
撮影=今泉慎一(風来堂)
芥川城・主郭石垣からの眺望。大阪平野が一望でき、あべのハルカスも遠くに見える