前田利家がかくまった3つの理由
右近は、同じキリシタン大名の小西行長にかくまわれたのち、小豆島などを経て、1588(天正16)年秋ごろ、金沢へ移っている。
金沢といえば、秀吉とは信長家臣としての古くからの“同僚”で、当時は豊臣政権の重臣の一人だった前田利家の領地。つまり、右近は利家に招かれ庇護されたのだ。
利家はなぜ、右近を受け入れたのか。理由はいくつか推測できる。
まず、なんといっても右近の軍事面での経験と能力だろう。
1590(天正18)年の小田原攻めの際、実は前田勢の一員として、右近も参加したといわれている。秀吉に逆らって領地を失ったはずの右近が、秀吉の天下統一の総仕上げとされる小田原征伐の場に居合わせていたとは……。
小田原攻めの戦場にこっそり?
当然、秀吉が知らぬわけもなかっただろう。だが、表立って堂々とではなく、いわゆる「客将」として前田家の一員で参戦するならば目をつむろう、という感覚だったのかもしれない。
前田家にとっても、わざわざそんな場所に右近を連れてゆくのは、少なからずリスクがある。ただし、そのリスクを上回る軍事的能力があったのだ。
右近が持つ築城の知識や経験も前田家に買われた。特筆すべきは1609(慶長14)年、二代目藩主・利長が隠居後に築いた高岡城(富山県高岡市古城1-9)の例。この城の縄張(設計)には、右近が携わったという説がある。




