茶人・千利休の高弟でもあった
そして、右近は千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるほど、茶の湯にも通じていた。金沢時代、姪の嫁ぎ先である商人に送った右近自筆の書状には、「茶の湯に使う鶴の羽のほうきを見せたい」と、知人を茶席に招く内容も記されている。今に至る小京都・金沢が生まれるのに、少なからず右近も貢献している。
当時の北陸は相当な僻地。かたや右近は日本の中心だった畿内の出身。歩んできた経験も相まって、前田家にとっては「実に役に立つ男」だったのだ。
右近を追放したのは家康
バテレン追放令により流れ流れて金沢にたどりついた右近。ではその後、どのぐらい同地で過ごしたのか? そしていつ、日本を追放されたのか。
その答えは、意外にも20数年後。ということは、既に秀吉はこの世を去っている。つまり、右近が国外追放となったのは、「バテレン追放令」が直接要因ではないどころか、秀吉のせいでもない。“犯人”は徳川家康だった。
状況が変わったのは、時の権力者が徳川家になって以降。徳川幕府がキリスト教信者を徹底的に排除しようとした時期。
1614(慶長19)年正月17日、追放令を受け右近は金沢を離れる。そして長崎から船に乗り、11月下旬に当時はスペインが支配していたフィリピンのマニラへ到着。現地のキリシタンに温かく迎え入れられたという。
しかし、到着からわずか40日後、右近は天に召された。享年62~63。おりしも日本国内ではそのころ、大坂の陣が勃発。かつて右近を重用し、のち追放した豊臣政権が、終焉への坂道を転げ落ちてゆく時期だった。
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