高槻城下を治め、領民の7割を信者に
芥川城といえば、かつての主君・三好長慶の居城。さらにさかのぼれば、長慶の下剋上により失脚するまで、畿内一帯を支配していた権力者・細川晴元の居城だ。つまり、摂津国では最重要の城のひとつだったといっていい。
ところが、和田惟政が1571(元亀2)年に摂津で起きた白井河原の戦いで討死すると、後を継いだ息子・惟長と高山氏との関係が悪化。友照・右近親子は危うく暗殺されそうになるも難を逃れ、逆に惟長を追放。高槻城を手に入れる。
右近が父・友照に勧められキリスト教に入信したのは1564(永禄7)年。12歳ごろに洗礼を受けて「ジュスト」の名を得た。
1573(天正元)年ごろ、高槻城主となった右近は、城下の整備を進める一方、父とともにキリスト教の布教を積極的に行った。1581(天正9)年ごろには、領民2万5000人のうち実に1万8000人がキリスト教信者となったとの記録もある。
織田信長に仕えていた頃には、右近は安土城下に邸宅を与えられていたという。城下にセミナリヨ(神学校)を建設する際には家臣も派遣している。本能寺の変後には、安土に代わって高槻にセミナリヨを新たに設けたという。
本能寺の変後は羽柴秀吉に従うことになり、数々の戦いで活躍したことは先述したとおり。では、バテレン追放令によって姿を消した右近は、その後どこに行ったのか。


