嫡男喪失がもたらしたお家騒動
嫡男を失った長宗我部家では、元親の四男・盛親を後継者に定めた。しかし、これには一族や家臣の間に異論が生まれる。
とくに一族である吉良親実や比江山親興らは、長幼の序から次男・親和を推し、四男・盛親の家督相続に反対。これに対し、盛親を推す重臣・久武親直は親実らと対立してしまう。
この時、親直が元親に対して「親実らに謀反の疑いがある」と讒言したとする話も残る。元親はこうした訴えを受け、1588(天正16)年、親実や比江山親興に切腹を命じたとされる。こうして後継者をめぐる意見の対立は、重臣同士が主君に相手を告発し、一族の処分にまで発展する深刻なお家騒動となったのだった。
かえすがえすも、信親が戸次川で散っていなければ──。
落胆のあまり人が変わってしまった?
信親を失った元親の晩年については、後世の記録に「人が変わったようになった」とする評価が残っている。先に挙げた親実や親興らへの切腹命令のほかにも、三男の津野親忠を幽閉するなど、身内に対しても厳しい処置を取っている。
かつては家臣の意見にも耳を傾けながら、見事に四国の覇者にまで上り詰めた元親。数多いる戦国武将の中でも優秀な男だった、という評価は誰もが認めるところだ。ゆえに、信親の死を境に「人が変わった」と評されてしまうのだろう。
ただし、元親が信親の死を境に「暗君」になった、と単純化するのは適切ではないかもしれない。元親は存命中、その後も検地や法令の整備を進め、秀吉の命による小田原征伐や朝鮮出兵にも参加している。
1591(天正19)年頃には本拠を浦戸城へ移し、領国経営も続けていた元親は1599(慶長4)年、61歳の生涯を終えた。重病のため名医を求めて京に上った末、伏見の屋敷で息を引き取る。死の直前には後継に指名した盛親への遺言も残して。



