長宗我部信親が22歳で戦死し…
川の向こうにある味方の城を救いたいが、渡河しての攻撃は危険を伴う。ましてや兵数差もある。鶴賀城と示しあわせて挟撃という手もあるが、城主が失われている中では難しい。島津軍は城主を討ち、士気が高揚していることも想像される。
鶴賀城は山上一帯を城域とし、竪堀や横堀、土塁でガッチリと固めた城。そう易々と落城することはなかったはずだ。結局、戸次川の戦いでの大敗後に降伏し開城するのだが、もしそれがなければ、力攻めは難しかったのではなかろうか。
そして、いずれ豊臣方本隊の大軍が着陣し、形勢逆転となっていただろうことは、火を見るより明らかだったはずなのだが。




