正攻法なら勝てるはずだった
長宗我部家の次代を担うはずだった有能な嫡男が陣中で命を落としたことは、家にとって決定的な打撃だった。
戸次川の戦いにおける両軍の布陣や戦いの経過を見てみると、いかに秀久の作戦が無謀だったのか、よくわかる。元々、島津軍は、戸次川の東岸にある鶴賀城(大分県大分市上戸次利光)を攻撃対象としていた。標高193m、麓からの比高175mの山城だ。
この城には、大友家の家臣・利光宗魚が籠っていた。しかし、宗魚は流れ弾を受け戦死したものの、城兵は奮戦を続け城は落ちていなかった。そこに、川の反対側、西岸の鏡城(大分県大分市竹中3342)に着陣したのが、秀久率いる豊臣軍だった。




