天下を継ぐことなく20代で切腹
近江八幡の城下町と居城を見るかぎり、秀次は「権力を傘に着た暴君」ではなく、内政にも軍事にも目配りの利く、なかなかの武将だったのではないかと思わせられる。小牧長久手でのしくじりもあった。若さゆえに多少のヤンチャもあっただろう。だがその後、居城と領地を与えられて以降は、宿老・田中吉政の力も頼りつつ、着々と為政者としての経験を積んでいっていたはずだ。
だが、その実力を天下人として発揮する場面は、ついに訪れなかった。1595(文禄4)年6月、突如として秀次には謀反の疑いが持ち上がる。秀吉に詫びを入れようとするも拝謁を許されず。「高野山へ行け」と伝言されやむなく従う。そして切腹。
謀反の疑いは濡れ衣で、実子・秀頼に家督を譲るための謀略だった可能性も高いとも言われている。一方、近年の研究では、秀吉が求めたのは廃嫡までで、切腹は秀次の早合点だったとの説もある。
いずれにせよ、将来を嘱望された“次期天下人”秀次は、28才で短い生涯を終え、多数いた妻子も処刑、秀次の一族はこの世から消えることとなった。
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