秀次が設計した水都・近江八幡
現在は埋め立てられ地形が変わっているが、安土城と城下町は、往時は琵琶湖に面していた。水運の利便性を重視した立地といえるだろう。近江八幡もまた然り。秀次は、琵琶湖から城下町の中心部まで、全長約5〜6kmにもなる運河を掘削している。
陸路での輸送や移動に制約が多かった時代、水運の重要性は現在とは段違いだった。琵琶湖の水運に着目した秀次は、「八幡山下町掟書」を発する。これにより、琵琶湖を往来する商船は、必ず八幡堀を通るように定めた。
さらに船を逗留させる仕組みも構築。八幡堀の中心部に、7カ所の「浜(荷揚げ港)」を70〜80m間隔で設けている。八幡堀の堀端には、かつての近江商人の邸宅や蔵が並ぶが、堀側にも門が設けられている家も多い。堀を中心とした、往事の賑わいを彷彿とさせる光景のひとつだ。
近江八幡でもうひとつ重要な遺構が古式水道。城下町は東西で約5mの高低差があり、これを利用して井戸水を送る仕組みも作られている。さらに、城下町の主に西部には、宅地の裏側に「背割」を整備。これは日本最古の下水道と呼ばれている。
今も残るこれらの上下水道が秀次時代のものかは不明だが、縦12筋、横4筋の碁盤の目状の町割は、現在もほぼそのまま残っている。
実質的に指揮した“秀次の右腕”
以上を見るかぎり、秀次の内政巧者ぶりがうかがえるが、実はこれにはウラがある。天下人の後継者としての秀次、実は自領の近江八幡を不在にすることも多かったという。留守を任されていた“右腕”が田中吉政。秀吉に命じられ、秀次を筆頭家老として支える立場にあった。
派手さはないものの、内政に長け実直で頼りになる男、吉政。のちに木曽川の氾濫対策「尾張堤普請」の惣奉行を任されたり、柳川の堀割を整備するなど、水にまつわる知識や技術を得たのは、近江八幡での経験も大きかったはずだ。



