倒産しても消えない小川の影響力
総会屋は株主総会から締め出された。賛助金が激減する。
1982年5月、「小川企業」が倒産。同月9日の毎日新聞、11日付の読売新聞がこれを大きく報じた。全国紙が総会屋の倒産を大見出しで報じたのはこれがはじめてだった。それほどに小川薫の存在は大きかったということになる。
ところが1990年代初頭、駆逐されたはずの総会屋と証券会社の癒着が発覚。大事件へと発展する。野村證券と大和証券などが関わった「総会屋利益供与事件」では、総会屋に対する巨額の利益供与が摘発された。
総会屋を駆逐したからといって、企業の不正がなくなったわけではない。不正があるところ、必ずそれに食らいつく者がいる。企業は依然として総会屋対策に頭を痛めていたのである。
だが、利益供与は水面下で処理しなければ刑事罰の対象になってしまう。そこで小川薫を頼ったとされる。「小川ルート」――すなわち企業は小川を通すことで複数の総会屋グループを一度に沈静化しようとしたのだ。倒産し、廃業したはずの小川薫は「寝業師」として暗躍していたということになる。
表と裏の狭間で頂点を極めた
小川は当局に狙い撃ちにされた。2003年に恐喝未遂で逮捕、2006年に出所するもその2年後、不動産業者に対する恐喝で逮捕され、東京地裁で懲役10月の実刑判決。
齢70歳で身柄拘束されたのだった。多数いた愛人たちも、小川の落日とともに去っていったという。
郷里・広島を夜逃げで上京して45年。総会屋の代名詞にまでなった小川薫は2009年4月27日夜、肺炎のため収容先の東京拘置所内で死亡。71歳だった。
総会屋は「会社のダニ」と言われた。唾棄され、蛇蝎のごとく忌み嫌われた。だが嫌がられ、恐れられるほどカネになるという日本独特の「職業」でもある。欧米では株主が経営に積極的に関与する文化があるが、日本では総会が儀式化しており、「波風を立てずに終わらせたい」という企業心理が総会屋の活動余地を生んだと言えよう。
企業にとっては脅威でありながら、総会屋を利用することで問題を解決した一面があったことは指摘しておかなければならない。小川薫はその狭間で「寝業師」として暗躍し、頂点に上りつめたのだった。


