かつての襲撃犯まで懐に入れた

小川の「寝業師」ぶりについて、『敬天新聞』社主の白倉康夫がこんなエピソードを語っている。

白倉が地方銀行のS銀行神田かんだ支店とトラブルになったときのことだ。神田支店に街宣をかけると、関西Y組系G組が小川薫を仲介に立てて和解を打診してきた。

「白倉ちゃん、久しぶり」

事務所で会った小川の満面の笑みに、白倉は当惑したという。白倉はかつて小川のライバルである高田光司の警備隊長をしており、三菱電機株主総会の会場で小川を襲撃。懲役1年(執行猶予3年)に処された因縁があるからだ。

小川はコワモテの一方、人なつこいところがあると聞いてはいたが、親しくもなく、まして襲撃した自分に対して“ちゃん付け”で呼ぶとは思いもしなかったと白倉は語る。

S銀行が街宣に音を上げ、謝罪することで白倉は矛先をおさめるが、後日、小川が登場したカラクリを知る。小川はS銀行を系列とするF銀行に「街宣を止めてやる」と持ちかけ、3千万円を受け取っていたのだった。

年10数億円を集めた総会屋に逆風

1973年に「小川企業広告研究所」を「小川企業」と改組、多くの配下を率いた。

小川薫は持ち前の度胸と「寝業師」としての才覚で、日本中の総会を仕切るまでになっていた。企業からの賛助金は、一流企業を中心に約千社から年間10数億円を集めていたとされる。

1967年3月、中学校時代からの友人の依頼で、芸能事務所「T&C」のオーナーになる。同事務所はデビュー前の「ピンク・レディー」を抱えていた。売り出しのために小川が1億3000万円の運転資金を工面。『ペッパー警部』の大ヒットで「ピンク・レディー」は国民的アイドルになるが、総会屋との接点がマスコミに書き立てられ、約2年でオーナーから身を引くことになる。

だが、この一件を潮目とするかのように、総会屋は逆風にさらされていく。

小川一門の「広島グループ」だけで数千人を超える規模となったため、風当たりの強さが年々増し、社会に総会屋を締め出す機運が醸成されていったのだ。総会屋を締め出すため、1981年に商法が改正され、総会屋に対する利益供与が刑事罰の対象となった。