「踏み台」に徹し日の目を見る
菅は小此木宅の近くにアパートを借り、毎朝、小此木の家に行って食卓を囲んだ。朴訥で飾らない性格の菅青年を小此木は可愛がり、ときに怒声をもって仕込んだが、菅自身は政治家を目指していたわけではなかった。
選挙は地盤【組織力】・看板【知名度】・鞄【資金力】という“3バン”がなければ勝てない。秘書として政治の世界に身を置く菅にはよくわかっていた。
それでも菅は徹底して小此木に仕えた。秘書は激務で不規則だ。1980年5月には小此木宅に住み込みで働いていた真理子と結婚している。議員になるのが無理となれば、もっと給料がよくて待遇のいい民間企業で働くことも考えて当然だが、菅はそうはしなかった。秘書として愚直に仕え、将来ある小此木の“踏み台”となっていっしょに出世の階段を上っていく――それが菅の思いではなかったか。
「おまえなんか出ていけ!」
小此木の叱責にも耐えた。
そして、秘書として10年になろうとする1983年、通産大臣に就任した小此木はベテラン秘書を差し置き、菅を大臣秘書官に抜擢したのである。
背水の陣で38歳の初当選
「寝業師」は2つのタイプがある。目標を達成するために日々策を弄すタイプと、じっくりと構え、ここ一番のチャンスと見れば電光石火で仕掛けるタイプだ。
後者はチャンスが到来しなければ目標をあきらめる潔さがある一方、いったん仕掛けたら絶対にあきらめない【しぶとさ】がある。菅は後者の典型であった。
チャンスは1987年4月の横浜市議選でやってきた。横浜市西区を地盤とする自民党現職の長老が引退することになったのだ。定数は2。菅は出馬を決意する。小此木の秘書になって11年、秋田から上京して20年近くの歳月が流れていた。
ところが一転、この長老が翻意して出馬することになったのだ。自民党横浜市連は「菅降ろし」に出た。小此木も自重をうながした。だが、いったん決意した以上、恩ある小此木の忠告であっても菅は退かない。辞表を出し、背水の陣で臨んだのである。
菅は当時、幼子2人を抱えていた。落選すればその日から路頭に迷う。必死だった。朝6時、夫人と2人で街頭演説に立った。努力が運気を呼び込んだか、長老が県議に転出。菅はぎりぎりながら2位で当選を果たすのだった。
こうして菅は政治家として第一歩を踏み出す。38歳の新人であった。


