菅義偉の出世は獣道から始まった

好きな言葉は何かと問われた菅は、「意志あれば道あり」と答えている。

その「道」とは、世襲議員が登る山道が整地された登山道であるとするなら、「叩き上げ」の菅がよじ登ったそれは獣道にも等しいものだったろう。世襲議員が担がれることで頂上を目指す神輿とすれば、「叩き上げ」は彼らを【担ぐこと】で頭角をあらわしていく。

菅の軌跡と処し方は、政界に限らず「叩き上げ」にとって出世の王道とも言うべきノウハウが見て取れるのだ。

高校を卒業した菅義偉は家業のイチゴ農家を継がず、父親の反対を押し切って上京する。

志があったわけではない。大都会へのあこがれだったのだろう。郷里は指折りの豪雪地帯で、出稼ぎの村だ。後年、菅は「鉛色の空に覆われた村がいやだった」と真情を吐露している。

高校の紹介で東京・板橋区の段ボール工場に住み込みで就職する。だが、都会生活は思い描いていた世界とはほど遠く、厳しい労働環境のなかで将来に対する不安とあせりに悩み、会社を辞して大学進学を決意する。

製紙工場で生産する段ボール
写真=iStock.com/agnormark
※写真はイメージです

つてもなく政治の世界へ

受験勉強の一方、入学金を貯めるため昼間は築地市場で台車運び、夜は新宿の飲食店で皿洗いなどのアルバイトに励んだ。そして高校新卒者より2年遅れで法政大学法学部に入学。学費を稼ぐため飲食店で皿洗いやガードマンなどアルバイトを続けた。

大学を卒業すると、防災関連事業や電気設備工事を営む企業に就職するが、ここでも気持ちは満たされなかったのだろう。ふと「社会を動かすのは政治だ。政治の世界に身を置いてみたい」と思うようになる。

漠然とした希望なら誰でもいだくが、すぐに忘れ、現実生活に埋没していくのが私たちだろう。

菅は実行に移した。

伝手つてはない。法政大学の学生課に掛け合うと、中村梅吉の事務所を紹介される。中村は法務、建設大臣、衆議院議長などを歴任した法政OBだった。

秘書となった菅は早朝から夜遅くまで懸命に働いたが、中村が政界を引退することになり、中村と同じ中曽根派の小此木彦三郎おこのぎ ひこさぶろう衆議院議員の事務所に7番目の“最若手”の秘書として移る。

小此木はこのとき衆議院議員当選2回目で、47歳の壮年議員。運輸政務次官に就いていた。

2年後には自民党神奈川県連会長となり、第2次中曽根内閣(1983年)で通産大臣、竹下改造内閣(1988年)では建設大臣を務める。自民党国会対策委員長、衆議院議院運営委員会委員長なども歴任し、党内でも指折りの国対族として知られた。