秀長最初期の痕跡が残る貴重な城
「主郭」の東側には城内最大の曲輪「千畳敷」が広がる。東西約130メートル、南北約50メートルと広大で、石列によって3つの区画に分けられ、それぞれに礎石が残っている。ここが有子山城の居住空間で、御殿が建っていたと考えられる。築地塀や庭園の跡も確認できる。
また「主郭」と「千畳敷」は、同じ尾根上に連続して配置されているものの、両者のあいだは巨大な堀切(尾根を断ち切った空堀)で切断されている。この堀切は幅が約28メートル、深さが約12メートルもあり、これによって主郭の奥の居住空間を守っていたのだ。
大堀切の底はそのまま主郭の周囲をめぐる帯曲輪(帯状の細長い曲輪)になっていて、防御性が高められている。この巨大な堀切の周囲も木々の伐採が進み、全体像がつかみやすいのがいい。
まだ織田信長が健在だったころに羽柴兄弟が築いた城は、重要な城ほどその当時の痕跡をとどめていない。たとえば、姫路城などには痕跡があるが、後世に大改修された城の一部に、その痕跡が見いだせるにすぎない。これに対して、あまり有名とはいえない有子山城には、羽柴兄弟の初期の痕跡、それもほかならぬ秀長の痕跡が、藤堂高虎との共同作業の結果として、よく残っているのである。


