竹田城を真っ先に攻略したワケ
だが、最初に竹田城についてもう少し見ておきたい。秀長がこの地を優先的に攻略したのは、南方の直線距離で15キロほどの場所にある生野銀山を確保する目的も大きかった。軍資金を確保するためにも、銀山を押さえるのが重要だったのだ。
しばらくすると、ふたたび太田垣輝延が入城しているが、天正8年(1580)1月に秀長が取り戻し、同年4月には但馬一国をほぼ平定。秀長は竹田城を播磨統治の拠点とし、その城代(事実上の城主)を務めることになった。その後、本能寺の変を経て、天正11年(1583)4月に賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破った秀吉が、本拠を姫路城(兵庫県姫路市)から大坂城(大阪府中央区)に移すまで、秀長が管轄した。
秀長が秀吉に代わって姫路城に移ると竹田城は配下の桑山重晴に預けられ、秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)の城主になると重晴は和歌山城に移り、赤松広秀が竹田城主になって、いま見る姿に整えた。
山頂の本丸を中核に、尾根筋に沿って南北320メートル、東西110メートルにわたり、3方向に曲輪が連なり、いずれの曲輪も石垣で積み固められている。本丸の天守台にはおそらく三重の天守がそびえ、要所には重層の櫓が建ち、ほかの塁上には長屋形式の多門櫓や土塀が建ち並び、厳重な門が随所に構えられていた。
「天空の城」のそばにある古城の価値
まさに総石垣による壮大な城で、当時の最先端の技術で築かれた。それは赤松広秀の手柄ではない。豊臣政権として大坂城を守るための城だったからこそ、これほど広壮かつ堅固に築かれたのだ。
秀長時代の姿はどこにどう残されているか定かでないが、赤松広秀が整備した豊臣時代の姿はいまにとどめている。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍にくみした広秀は、敗戦後、東軍に協力して鳥取城を攻めたまではよかったが、城下町に大火を招いた責任を問われ、家康に切腹を命じられてしまう。その後、竹田城も廃城になったため、江戸時代に手を加えられないまま、奇跡的に石垣等がほぼ残ったのである。
だが、竹田城の北方の有子山城(兵庫県豊岡市)には、秀長だけでなく、のちに築城の名人として名を馳せる藤堂高虎の初期の痕跡も、いまに残っている。
但馬の守護だった山名祐豊が天正2年(1574)、標高321メートルの有子山山頂部に築いた城で、竹田城と同じく、山頂部の主郭を中心に、3方向に延びる尾根上に曲輪が連なっていた。秀長は竹田城を奪還したのに続いて、天正8年(1580)4月から5月にかけて但馬の平定に取りかかり、有子山城も落城させたのだ。


