竹田城を真っ先に攻略したワケ

だが、最初に竹田城についてもう少し見ておきたい。秀長がこの地を優先的に攻略したのは、直線距離で15キロほど南方にある生野銀山を確保する目的も大きかった。軍資金を確保するためにも、銀山を押さえるのが重要だったのだ。

しばらくすると、ふたたび太田垣輝延が入城しているが、天正8年(1580)1月に秀長が取り戻し、同年4月には但馬一国をほぼ平定。秀長は竹田城を播磨統治の拠点とし、その城代(事実上の城主)を務めることになった。その後、本能寺の変を経て、天正11年(1583)4月に賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破った秀吉が、本拠を姫路城(兵庫県姫路市)から大坂城(大阪府中央区)に移すまで、秀長が管轄した。

夏の竹田城
夏の竹田城(写真=Wae35244/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

秀長が秀吉に代わって姫路城に移ると竹田城は配下の桑山重晴に預けられ、秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)の城主になると重晴は和歌山城に移り、赤松広秀が竹田城主になって、いま見る姿に整えた。