高虎が最初に手がけた石造りの城

山名氏の時代は土の城だった有子山城を、石垣の城に大きく改修したのは、城主になった秀長で、その工事を実際に指揮したのは、秀長の家臣だった藤堂高虎だといわれる。高虎の生涯について記した『高山公実録』に、「(高虎が)28歳のとき、羽柴秀長から出石(有子山)の築城を命ぜられた」という旨が書かれているのだ。

そうであれば有子山城こそが、高虎が最初に手がけた石造りの城ということになる。

竹田城と並んで但馬支配の拠点になり、その後、木下昌利、青木秀以、前野長康、小出吉政らが城代を務めた。関ヶ原合戦後も小出家が城主となったが、吉政の嫡男の吉英は山麓に出石城を築き、高い山上にあって不便なこの城は廃城にした。このため、有子山城も江戸時代以降の手が加わらないまま、秀長と高虎による遺構が残されたのである。

登ってみたが、これがラクではない。谷筋にあったかつての登城路が通行できなくなっていて、尾根伝いを登らなければならず、それがかなりの急斜面なのだ。そのうえ、あちこちに岩が露出してすべりやすく、ロープを伝って登る箇所もそれなりに長い。

急峻な登山道
筆者撮影
急峻な登山道

往時の姿を残した荒々しい石垣

途中、山名氏時代の土造りの曲輪や堀切などを見ながら登りきると、最初に「井戸曲輪」が目に入る。ここは秀長による改修以降のもので、城内の飲料水を確保するための重要な曲輪の崩壊を防ぐために、7段の石垣で支えられている。

いよいよ山頂部に着くと、「第六曲輪」の石垣が目に飛び込む。自然石を積んだ、かなり荒々しい石垣だ。そこからは「主郭」までのあいだに、「第五曲輪」から「第二曲輪」まで石垣造りの曲輪が5段、主郭を含めれば6段、階段状に配されている。竹田城ほど石垣が残っておらず、また竹田城の石垣のようには整っていないが、山中の石を切り出して積んだと思われる石垣は荒々しくも生々しく、秀長の時代の城のあり方を実感させてくれる。

第六曲輪(手前)と第五曲輪の石垣
筆者撮影
第六曲輪(手前)と第五曲輪の石垣

竹田城は山上の木々がよく伐採されているので、個々の石垣がよく見え、城の全体像も見渡しやすい。同様に有子山城も、最近、木々がかなり伐採されたようで、秀長時代の城の構造がつかみやすい。

「主郭」は東西に約42メートル、南北に約20メートルとさほど広くはないが、北側と西側が、高虎が積んだと思われる高さ4~6メートルほどの、自然石を積み上げた野面積みの石垣で固められている。また、西側の虎口(城の出入口のこと)には23段の石段が残っている。

有子山城の主郭石垣
筆者撮影
有子山城の主郭石垣