読売新聞社や日本テレビ放送網などの社長を務めた正力松太郎は、「経営者」という枠には収まらない人物だ。作家の福田和也さんは「昭和という時代を代表する人物だった」という――。
※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。
さまざまな人生を生きた正力松太郎
正力松太郎――。彼は、一体、いくつの人生を生きたのだろうか……。
治安維持に奔走し、社会主義者を容赦なく弾圧した内務官僚。
倒産寸前の新聞社を、日本一にした経営者。
日本にベースボールを定着させた興行師。
戦犯に指定されながら、見事、カムバックした、したたかな世渡り上手。
街頭にテレビを設置したアイデアマン。
原子力の父。
正力は、昭和という時代を代表する人物であり、その「代表」ぶりは、毀誉褒貶に塗みれているが、それこそが、正力の面目なのだろう。
優れた柔道選手から東大法科へ
正力松太郎は、明治十八(一八八五)年四月十一日、富山県の射水郡枇杷首村(現射水市)で、父庄次郎の次男として生まれた。
正力家は、土建を稼業とし、苗字、帯刀が許されていた、いわゆる中農という家格であった。
松太郎は、虚弱な子供だった。当時、ひ弱な子供は、寄宿舎から学校に通うのが通例だったが、庄次郎のやり方は違った。
八キロほどの道程を、毎日、地下足袋で歩かせたのである。
勉強をするよりも、とにかく体を鍛えろという父の教えに従った松太郎は、健康になった。
もっとも、卒業の席次は、ビリから四番目だったけれど……。
それでも、北陸の名門、第四高校に、そのまま進めたというのだから、暢気な時代である。当時、第四高校では、西田幾多郎が倫理学を講じていた。
正力は柔道の選手としては、極めて優れた評価を受けていた。
無段ながら、第三高校の大将を倒したのだ。
第四高校卒業後、正力は東京帝大法科大学の独法科に進学した。
しかし、大学のキャンパスよりも、講道館にいる時間の方が長かった。