「日米野球のポスターで、東京を埋めてしまえ!」

ハンター監督が来日し、正力とまみえることになった。

「今回の招聘は、日米親善と読売新聞の宣伝以外の目的はない。だから私は一文も儲けようとは思っていない。もしも上手く儲かったなら、全部君たちに進呈しましょう」

正力の言葉にハンターは驚き、「ギャランティは十万円でいい」ということになった。

ベーブ・ルース
日米野球で来日したベーブ・ルース〔写真=『横浜グラフ』(日本国際写真通信社)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

当時、読売の経理は、火の車だった。

読売新聞は、ようやく二十二万部を達成したばかり。

アメリカ・チームの招聘は、紛うことなく、社運が賭けられていた。

正力は宣伝の陣頭にたった。

「日米野球のポスターで、東京を埋めてしまえ!」

結局この興行は大成功となり、東京、大阪、神戸どこへ行っても試合は観客に溢れ、これにより読売新聞は五万部も発行部数を伸ばした。

このキャンペーンの経費は、四万八千円かかったという。

満州事変がきっかけで夕刊が生まれた

昭和六年九月。満州事変が勃発した。新聞紙面の様相は一変した。

大衆小説や娯楽面、スポーツや催事を通して販路の拡張を進めてきた新聞各紙は、大きな方向転換を余儀なくされた。

事変の勃発以降、速報が新聞の生命線になり、朝日と毎日は、百人を超える記者を前線に送り込んだ。

電送写真や携帯無線機を駆使して、連日紙面を賑わせていた。

その点で読売は、一歩遅れをとっていた。そのハンディを克服するために、正力は、夕刊の発行を決断したのである。

「満州事変を詳しく報道するには、夕刊が必要なのだ。記者諸君は、いい記事を書いてもらいたい。いい紙面を作れば読売は売れる」

満州事変が支那事変に発展した、昭和十二年前後には、販売網の再編を進めつつ、特派員を前線に送りこみ、朝日、毎日に引けをとらない紙面を作りあげていった。

報知新聞や時事新報など、東京系が凋落ちょうらく著しいなか、読売は大阪系両紙と対等の競争を展開していた。