テレビを普及させるための突飛なアイデア
吉田茂首相を筆頭とする朝野の名士が、テレビ放送の開始を祝った。とはいえ、テレビの普及率は、けして高くはなかった。
電化製品のなかでも、飛び抜けて高価だったからである。
これでは、なかなかテレビは普及しない……。
そこで正力は、奇抜なアイデアをもちだした。盛り場や街頭に、テレビ受像器を設けたのである。
当時の受像器は、かなり小さいものだったが、それでもテレビの魅力を伝えるには十分だった。
特にプロレスの人気は高く、力道山はたちまち国民的英雄になった。
原子力発電を日本で広める
正力に、原子力についての知識をもたらしたのは、橋本清之助であった。
橋本は、大政翼賛会周辺の活動家だったが、大戦後、日本原子力産業会議の初代事務局長を務めた人物である。
橋本は正力に対して、アメリカでは原子爆弾で発電しよう、という気運がある、と教えたのだった。正力は、敏感に反応した。
昭和三十四年五月五日。第三回東京国際見本市が開かれていた。
見本市の目玉は、実働原子炉UTRだった。
原子炉といいながら、出力は、わずか〇・一ワット。
原子炉を安定的に運転するために出力を抑制していたのであり、実際は百キロワットまでは、問題なく発電できた。
昭和天皇、皇后は、五月十二日に見本市を訪れた。
ドイツ、チェコスロバキア、アメリカなどの特設コーナーを見て回ったあと、天皇は、原子炉を視察した。
天皇は強い興味を抱いたようで、自身で原子炉の周囲に巡らされた柵を取り払い、階段を昇り、炉心部を直接、覗いた。
その後、正力は読売新聞や日本テレビを使った大々的な原発推進キャンペーンを展開し、初代の原子力委員会委員長に就任した。
「国は原子力発電の開発に全力を尽くす。地方自治体は、アイソトープの利用法の開発を手伝っていただきたい」
原子力委員長に就任した直後の発言である。