朝日や毎日が戦艦なら、さしずめ読売は木造船
正力が、読売新聞を買った大正十三年頃、発行部数は四万部で、東京の新聞社としては、三流に位置していた。
正力は、社内で信望の厚い千葉亀雄を社会部長から編集局長に昇格させた。
一方、社務を統轄する総務局長には、警視庁特高課長だった小林光政、販売部長には、警視庁捜査課長の武藤哲哉、庶務部長に警視庁警部の庄田良を配し、営業局長には、新聞界に通じた毎日通信社長の桜井貢を抜擢した。
経営の現場に立つと驚くばかりだった。
崩壊の瀬戸際だというのに、社員の前借、車賃、接待費などが、際限なく蕩尽されていたのである。
後年、正力は、当時の状況をふりかえって、こう語っている。
「たとえば朝日や毎日が戦艦なら、さしずめこちらは木造船である。木造船で軍艦に手向かえば、こっちは自滅する。戦闘には水雷艇でゆくことが先決だ」
ベーブ・ルースを招聘するために
大正三年三月、大正天皇の即位を記念する東京大正博覧会が催された。上野公園に、軍事から美術までの展示館を並べたもので、観覧者は、約七百五十万人に及んだ。
博覧会の集客力を知った正力は、娯楽的な要素が多い、納涼博覧会を計画した。
無料入場券を配って、景気を煽ることで、読売本紙の新規購読者を獲得しようという目論見である。
読売新聞はこうしたイベントで部数を伸ばしていく。
昭和四年の暮れ方。報知新聞の論説記者、池田林儀が正力を訪ねて来た。
池田は、記者仲間では、国際通という定評を得ている人物だった。
「正力さん、あなたベーブ・ルースを知っていますか」
正力は、高岡中学で野球をしていたことがあった。
「本塁打を一シーズンに、六十本も打っているんですよ。朝日も毎日も、ベーブ・ルースを招聘したいが、ギャラが高すぎて手がでない。読売が招いたら、面白いんだけれど……」
池田は、言った。
「で、池田君、いったいギャランティはいくらなんだい?」
「二十五万円です」
当時、シボレーの4ドアセダンが、二千五百円であった。莫大なギャラである。
その頃、野球はようやく国民的スポーツの一角を占めるようになっていたが、まだまだ本格的に普及しているとはいえない状況だった。
けれど、ベーブ・ルースが来日すれば、野球人気が沸騰するのは、目に見えていた。
「池田くん、ルースを呼んでくれ。二十五万円といっても、五万ぐらいは値切れるだろう」
正力は、早大野球部の監督を辞したばかりの市岡忠男を、読売の運動部長に抜擢した。
外務省は、率先してルース招聘の道筋をつけた。
険しさを増していた日米関係にとって、またとない機会だと考えたからである。
ニューヨークの総領事、斎藤博から、ハンター監督との交渉経緯が届いた。
「交渉は進んでいます。ギャランティは、ルースが七万円、ルー・ゲーリッグが三万円、他に監督、選手、審判を加え夫人同伴で、二人を含めて総額二十五万円。ただしルースとゲーリッグ以外は二流どころになります」
正力は、叫んだ。「俺は、一流主義だ! 二流は御免被る!」