「虎ノ門事件」の責任を取らされ官界を辞す
大正十二年十二月二十七日。午前十時四十分。御病気の大正天皇の名代として、摂政裕仁殿下は、第四十八帝国議会開院式に御出席のため、侍従長の入江為守と共に、お召自動車で赤坂離宮を出発し、虎ノ門にさしかかった。
当時は、戦後のような厳しい警備はなく、警官や憲兵も、ごく少なかった。
お召自動車が芝区琴平町の家具商「あめりか屋」にさしかかると、拝観者に交じって不審な動きをした青年がいた。
青年は素早く警戒線を破り、仕込み銃を構えて、摂政に向けて発砲した。
右側のガラス窓に大きな亀裂が入り、車中に弾丸が散乱した。摂政は無事だったが、入江侍従長は、顔に小さな傷を負った。
狙撃した青年、難波大助は、「革命万歳」を叫びつつ、走っているところを警官と憲兵にとり押さえられた。
政府の対応は、早かった。山本権兵衛内閣は、その日のうちに辞表を提出した。摂政から留任するようにとの優諚があったが、辞退して総辞職を決行した。
世に言う、虎ノ門事件である。警察の責任者として免官処分を受けたのは、警視総監湯浅倉平、警視庁警務部長正力松太郎だった。
かくして、正力松太郎の官界生活は、終わりをつげた。順調にいけば、次は県知事に就任するはずだった正力は、官界を去らざるを得なくなったのである。
10万円で読売新聞を買い取る
案外早く、正力はカムバックの機会を得た。
神楽坂署長時代に懇意にしていた千葉博己が正力を訪ねてきたのである。千葉はいきなり、正力にこう言った。
「あんたは、もう官界には戻れまい。奮起一番、新聞をやらんか。あんたならできるぞ」
たしかに、もう官吏にはなれないだろう。それなら新聞をやるのも面白いのではないか……と正力も考えた。
正力は、伊豆長岡の後藤新平を訪ねた。
あいにく、後藤は西園寺公望の興津(静岡県)の別荘に赴いていたが、夕方近くになり、帰ってきた。
「何しに来たんだ!」「早急に、金が十万円ほど必要なんです」「何に使うんだ」後藤はそっけない。
「売りに出ている読売新聞を買おうと思いまして……」後藤はニンマリと笑ってみせた。
「分かった、十万円は引き受けた。二週間後に取りに来い」
当時の十万円といえば、資産家でも躊躇する額である。
「新聞経営は、難しいと聞いている。失敗したら未練を残すな。その金は返さないでいい。そのつもりで新聞に打ち込め」後藤は言った。