本田技研工業(ホンダ)の創業者、本田宗一郎はさまざまな伝説を残している。そのひとつが社長を退いてから2年半も続けた「お礼行脚」だ。時には販売店の前に立って、来店客に「本田でございます。いつも御贔屓有難うございます」と挨拶することもあったという。作家の福田和也さんがその人となりを書く――。

※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 20-21世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。

本田宗一郎とレーシングカー
写真=時事通信フォト
本田宗一郎とマクラーレンホンダ

本田宗一郎が残した、彼の人となりを表す3つの言葉

本田宗一郎は、日本の、いや世界の経営者の中でも、格別ユニークな存在である。

宗一郎は、次のような言葉を残している。

○謝ることは奴隷のすることである。反省こそ真の謝り方であり、将来発展の基礎である。
○競争とは、相手の不幸を願うものである。
○習慣を破ることは、勇気のある人の行うことである。

顰蹙ひんしゅくを買う発言ではあるけれど、宗一郎の面目が躍如としていて、実に面白い。

子供ながら万全を期した宗一郎少年の工夫

明治三十九年、現在は浜松市の一部となった、磐田郡光明村の鍛冶屋の倅として生まれた。

物心が付くか付かぬかの間に、屑鉄を折り曲げたり、分解したりしては得意になっていた。

着物の袖は、滴り落ちる青っ洟で、塗り固められていた。母は、冬には洟がカチンカチンになるので、おかしくて叱れなかったという。

尋常科の二年の時、家から二十キロくらい離れた浜松歩兵連隊に、飛行機が来た。飛行機を見るには、入場料を払わなければならなかった。二銭もあれば、見られると思っていたが、実際には十銭が必要だった。

父親は、入場料金を出してくれない。しかし、宗一郎は、諦めなかった。

飛行機が見られそうな松の木に取りつき、よじ登って一念を遂げようとした。

周囲に気を配り、下から見つけられないように、枝を折って、遮蔽した。子供ながら、万全を期したというところだろうか。

少年時代は、いらずらと機械いじりと読書に熱中

三年、四年と学年が進むにつれて、宗一郎の悪戯は激しくなっていった。

職員室の金魚が、赤いものばかりで、面白くないといって、青や黄色のエナメルを塗りたくったり。家に帰れば帰ったで、悪戯の種には不自由しなかった。隣家の石屋が作っている石地蔵の鼻が気に入らないというので、金槌で彫り直そうとして鼻を欠いてしまったり。

「私の少年時代には、このような悪童行為のほかにはほとんど何もないといっても過言ではなさそうだが、その間にあってただ一つ――私がやりつづけたことは、機械をいじくりまわすことと、『立川文庫』を耽読したことぐらいであろうか」(『スピードに生きる』本田宗一郎)

宗一郎は、尋常科から高等科に進学したが、相変わらず、学業は苦手だった。

高等科をまもなく卒業する頃、『輪業の世界』という雑誌を読んでいると、広告欄に目がとまった。東京の「アート商会」が、丁稚、小僧の募集広告を出していたのである。宗一郎は、高等科を終えると、アート商会に入るべく父に伴われて上京した。