成功を収めたホンダは四輪の製造を始める
マン島レースに初めて出場した年に、ホンダはロサンゼルスに進出した。
宗一郎は、社員を日本から連れていくことをせず、現地の人間を採用した。社内では、アメリカ人の給与は、非常に高いので払いきれないのではないか、という意見もあったが、宗一郎は押し切った。アメリカ並みの給料を払えない、みみっちい商いだったら、やっても仕方がない、という料簡だった。
さらに、アメリカ人に喜んでもらえるような商売をしなければ、アメリカでは到底、通用しないだろうという考えもあった。
満州の例を見れば解ることだ。日本人が行った当初はごたごたしたけれど、満州の人間に、日本並みの給料を払っていくうちに、現地の人たちは自然と日本人を受け入れてくれたのだった。
このアメリカ進出を機に、ホンダの海外展開は加速度的に世界各国に広がっていく。
昭和三十五年には東京駅の目の前に本社ビルができ、資本金は百億円近くなり、本田技研は大企業になった。世間的にみれば、押しも押されもせぬ成功者となった宗一郎だったが、内心では、大きな葛藤があった。
昭和三十年代に入ると、トヨタや日産、いすゞの戦前派に続き、三菱重工、富士重工、東洋工業が、二輪を飛び越えていきなり自動車業界に参入した。二輪界のチャンピオンとなったホンダはいよいよ最終ターゲットである四輪に向けて走り始める。
三十八年八月に、軽トラックT360を、十月にはスポーツカーS500を発売した。特にS500のデビューには、営業スタッフが知恵を絞り、大キャンペーンを実施した。金に糸目をつけず、あらゆる媒体に大きな広告を打ったのだ。
なかでも、「ホンダスポーツカーS500価格当てクイズ」は、豪華賞品の魅力もあり、応募ハガキは、五百七十万通にも達したという。しかし、ホンダが四輪業界に地位を確立したのは、四十二年三月に発売した軽四輪N360の大ヒットによる。この車により、ホンダは軽自動車の大ブームを引き起こした。
盟友と好対照な現役引退後の生き方
興味深いのは、現役引退後の藤沢武夫と本田の生き方である。引退後、藤沢は、六本木の邸宅を改造し、「高會堂」という、呉服、書画、骨董を扱う店を開いた。商うのは夫人と息子さんだったというが、ホンダの仕事からは一切手を引き、完全に隠居を決め込んだのである。
一方本田は一時休みはしたが、本来の行動ぶりが頭をもたげ、日本はもとより、世界を駆けまわる「超多忙人間」になったのだった。
宗一郎はまず、銀座裏にあるビルの二階に「本田事務所」を開いた。ビルの所有者は高等小学校時代の同級生である山崎卯一だった。山崎も、町工場から始めて、成功を収めていた。
ただ、そのビル自体はかなりボロだったようで、「世界の本田宗一郎がこんなボロビルに事務所を開かなくてもいいだろう」と、山崎は何度も忠告したのだが、宗一郎は「かしこまったところじゃ落ち着かないから、ここでいい」と言ってきかなかったという。
宗一郎はこの事務所を拠点にして、全国のホンダの販売店、工場、営業所の社員たちへの「お礼行脚」を開始した。
綿密なスケジュールを組み、ヘリコプターと車を併用し、秘書一人を連れ、今日はこの地区、明日はこの地区と飛び回り、一日四百キロ以上を走破することもあったという。
しかも社員に挨拶するだけでなく、訪れた場所で必ず本田流のパフォーマンスを見せた。
例えば、小さな町のディーラーに立ち寄った時のこと。客など滅多に来ないのだが、宗一郎は飽きずに何時間も立っていて、客が来るとすばやく近寄り、「本田でございます。いつも御贔屓有難うございます」と挨拶する。
客はまさか目の前の老人が本田宗一郎であるとは気づかない。宗一郎は自分の正体を明かすことなく一セールスマンになりきり、一台、二台と契約をとりつけるのである。
工場に立ち寄った時などは、現役時代そのままに、誰彼構わず手を上げて、「イヨ、ヤア、オッ」を連発する。そればかりか、ネジの埋め込み作業をしている若者を捕まえ、「何だ、そのやり方は!」と叱咤する始末であった。
宗一郎の「お礼行脚」は二年半にわたって続いた。国内が一段落した後は海外事業拠点へと、行動範囲は広がる一方だった。