東急グループの創業者である五島慶太には、「強盗慶太」という禍々しい仇名がある。なぜそのように呼ばれたのか。作家の福田和也さんは「五島慶太は次々と企業買収を進め、猛烈な勢いで事業を拡大した。その苛烈な経営手腕にふさわしい仇名だった」という――。

※本稿は、福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)の一部を再編集したものです。

国立大学法人東京大学
写真=iStock.com/mizoula
※写真はイメージです

「強盗慶太」が苦学して東大法学部に入るまで

財界人、政治家で仇名をつけられるようになれば、本物で通るらしい。

高橋是清の「ダルマ」などは、その温容も含めて至極めでたいものだけれど、なかには強烈というより不吉な響きを含んでいるものもある。

「強盗慶太」という禍々しい仇名を背負っているのが、五島慶太だ。

五島は、明治十五年四月十八日、信州上田から十キロほど離れた長野県小県郡青木村の、小林菊右衛門の次男として生まれた。

兄はおとなしかったが、自分は乱暴者だった、と慶太は言っている。

青木村の小学校を経て、上田中学に通った。毎日、三里の道のりを歩き、一日も休まず通学したという。中学を出た後、上級学校へ入りたいという希望は止むことがなく、小学校の代用教員をしながら、学費を貯めた。

東京の高等師範学校に生徒の募集があり、合格し、入学を果たした。師範学校の校長は、嘉納治五郎。講話は、いつも「なあに、このくらいのこと」と腹をきめる「なあに」精神一本槍だった。

卒業して、四日市の市立商業学校に、英語の教員として赴任した。学校は校長を筆頭に教員から事務員まで覇気がなく、ともに仕事をする気になれない。

次の年の四月、慶太は商業学校を辞め、東大法学部本科に入学した。入学はしたものの、たちまち学費の支払いができなくなり、仕方なく嘉納の門を叩いた。

「なあに」精神の先生ならなんとかしてくれるだろう、と思ったのである。嘉納は、民法学者の富井政章男爵の子息の家庭教師の仕事を斡旋あっせんしてくれた。子息がめでたく第二高等学校に合格したので、慶太は男爵から加藤高明を紹介してもらい、高明の息子、厚太郎の住み込みの家庭教師になった。加藤家は待遇がよく、慶太は小遣いをもらい、浅草十二階下で、女郎を買った。