東映を業界トップに押し上げた映画の名前

東映は、時代劇で息を吹き返した。

福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)
福田和也『世界大富豪列伝 19-20世紀篇』(草思社)

占領中、時代劇は「封建思想を肯定している」として、制作は事実上禁じられていたが、昭和二十六年、講和条約が締結されて、再び制作されるようになった。

東映にとって幸だったのは、大映の永田社長が「活劇よりも芸術映画を撮る」という方針を打ち出したことである。

大映では、溝口健二監督が、『西鶴一代女』、『雨月物語』などでヴェネツィア映画祭などでの国際的な賞を次々と受賞した。永田は興奮したが、長い間、大映を支えてきたスターたち――片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗――は、待遇を不満として、東映に移籍してしまった。

昭和二十七年には市川右太衛門の『江戸恋双六』がヒットし、以降、月一本のペースで時代劇が制作されるようになった。京都撮影所制作課長の岡田茂は、こう述懐している。

今井正監督
ひめゆりの塔でブルーリボン賞を受賞した今井正監督(写真=朝日新聞社出版『アサヒカメラ』4月号(1953)より 撮影=秋山庄太郎/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「苦しい状況の時に一致団結するのが活動屋魂。とにかく皆、よく働いた。早撮りの名人と言われた監督の渡辺邦男にも来てもらってね。彼は十日間で千恵蔵の映画を一本撮ってくれる。これは、助かったな」(『映画百年』)

渡辺は「天皇」と仇名されていた。昭和二十八年一月に、『ひめゆりの塔』が封切られた。

今井正監督、津島恵子、香川京子ら若手女優を起用して、日本映画始まって以来の高い配給収入が得られた。『ひめゆり』のおかげで、東映は借入金を返済し、全国に百七十の専属館、千七百の上映館を持つ、業界トップに躍り出たのだった。

「大川によって東映は救われた。同様の意味で、彼は東急の大恩人である」と、五島としては、最大の賛辞をもって、大川に報いた。

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