「豊臣兄弟!」(NHK)で信長(小栗旬)は明智光秀(要潤)に討たれた。系図研究者の菊地浩之さんは「通説では、本能寺の変の直後、中国地方にいた秀吉が驚くような速さで京都まで戻ってきたとされてきたが、実は秀吉は山崎の戦いには間に合わなかったようだ」という――。

新発見の秀吉書状で通説が覆った?

本能寺の変後、羽柴秀吉が明智光秀を山崎の合戦で破り、天下取りの一歩を踏み出した。

ところが、合戦の当日(6月13日)に羽柴秀吉が富田(大阪府高槻市)で書いたと思われる書状が発見され、「山崎の合戦に羽柴秀吉が遅参していた」という新説(馬部隆弘氏)が唱えられ、注目を集めている。

狩野随川筆「豊臣秀吉画像」名古屋市秀吉清正記念館蔵
狩野随川筆・豊臣秀吉の肖像画(名古屋市秀吉清正記念館所蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

では、秀吉の代わりに光秀を山崎の合戦で破ったのは誰か? 『太閤記』によれば、山崎の合戦で光秀軍は1万6000兵、羽柴軍の内訳は下記という(『本能寺の変 山崎の戦』)。

羽柴秀吉 20000(2万)
池田恒興 5000
織田信孝 4000
丹羽長秀 3000
中川清秀 2500
高山右近 2000

信長の死後、秀吉が織田家中で主導権を取れたのは、弔い合戦ともいうべき山崎の合戦で、最大の軍勢を率いて勝利したからだと説明されてきた。しかし、実際は秀吉が間に合わなかったので、光秀軍を破った最大の功労者は、最も軍勢の多かった池田恒興つねおきということになる。

つまり、信長死後の政局動向は、池田恒興から見た視点が必要だと思うのだ。

山崎の戦いの立て役者は池田恒興か

池田勝三郎恒興(1536~1584)は、信長の乳兄弟(乳母の子)として、幼時から信秀・信長父子に仕えた(なお、その母親は後に信秀の子を産んでいる)。いみなを信輝とする書もあるが、信長と次男・輝政から創った偽名であろう。

信長にかわいがられ、信長の異母兄・織田秀俊が死去するとその未亡人との結婚を命じられた。未亡人は知多半島有数の国衆・荒尾家の出身で、この結婚により恒興は荒尾家を与力として、大きな軍勢を率いることが可能となった。

天正6(1578)年11月に摂津有岡城の荒木村重が謀反を起こすと、恒興は支城の花隈城を陥落させ、摂津を与えられる。天正10(1582)年5月に羽柴秀吉の中国遠征の援軍を命じられるが、同天正10年6月2日の本能寺の変で一転、6月13日の山崎の合戦に向かった。

山崎合戦之地の石碑
山崎合戦之地の石碑(写真=ブレイズマン/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons

清須会議では重臣扱いになった

天正8年に信長が佐久間信盛を追放した時、折檻状の中で「一、丹波は明智光秀が平定し、天下に面白をほどこした。羽柴秀吉は数カ国で比類ない功績を上げた。また池田恒興は小禄ながら短期間で花熊(花隈)を攻略し、これも天下の称賛を得た」(『現代語訳 信長公記』)と述べている。

つまり、池田恒興は秀吉・光秀より一段下がる人物だと信長から評価されていたのだ。ところが、清須会議では柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉とともに「宿老」待遇で参加している。「秀吉遅参説」によれば、池田恒興こそ山崎の合戦で光秀を破った功労者だから、参加が認められたのだろう。