信長の成功の象徴、安土城
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で、天正元(1573)年9月に浅井長政が自刃したと思ったら、その翌週には天正3(1575)年5月の長篠の合戦が「ナレ死」扱いでかっ飛ばされ、視聴者の度肝を抜いた。
このペースでは、安土城も一夜城のごとく完成してしまうかもしれない。安土城は天正4(1576)年1月に着工。3年をかけて築かれ、天正7(1579)年5月11日に織田信長は安土城天主閣に移り、居城とした。しかし、わずか3年後の天正10年6月、本能寺の変の後に焼け落ちてしまう。
現在、われわれが「お城」と言われた時に想像するのは、高層の天守閣を備えた城だが、その元祖が安土城なのだ。安土城以前の城は、堀と塀で囲われた館といった感じで、必ずしも天守閣――というか楼閣――を備えたものではなかった。
高層の天守閣は安土城が元祖
一説によれば、日本ではじめて天守閣を備えた城は、永禄2(1559)年に松永久秀が築いた多聞城、もしくはその翌年に築城した信貴山城といわれ、多聞城は四階櫓を備えていたという。ただし、その実態は明らかではなく、仮にそれが真実だとしても、諸将が多聞城を真似して「お城」を建築していったとは思えない。やはり、現在に繋がる天守閣は信長が建築した城が元祖で、信長・秀吉・家康の家臣たちが信長型の天守閣を模倣していったと考えるのが自然だ。
信長型の天守閣を備えた城は、旧二条城が元祖だといわれる。永禄12(1569)年に室町幕府15代将軍・足利義昭のために築いた城である。当時の記録にも旧二条城に「天主(天守)」と呼ばれる「坤角三重櫓」が存在していたことが書かれているのだが、廃城とされた現在ではその真偽を確かめる手立てがなかった。
ただし、近年、表面探査法による実地調査から、旧二条城に出隅(城の隅にある外側に出っ張った箇所)が存在することが確認でき、当時の城では出隅に天守閣を築くケースが多いため、旧二条城にも天守閣が存在したと推測されている(『新・戦国史』)。
いったん天守閣の元祖を旧二条城としておこう。ただし、安土城はその概念を打ち壊すほど、規格外の城だった。旧二条城が「三重櫓(3階建て)」だったのに対して、安土城は7階建てだったからだ。現在の感覚でいえば、2階建ての家屋と60階建ての「あべのハルカス」やタワマンを比較するようなものだろう。