「豊臣兄弟!」(NHK)はいよいよ本能寺の変へ。系図研究者の菊地浩之さんは「本能寺で信長に殉じたことで有名な森蘭丸(市川團子演じる森乱)は、その12年前に戦で散った重臣、森可成の次男。弟たち3人も信長の小姓だったが、末っ子だけは難を逃れた」という――。
右田年英画、本能寺で討ち死にする森蘭丸の錦絵、明治19(1886)年
右田年英画、本能寺で討ち死にする森蘭丸の錦絵、明治19(1886)年(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

本能寺で殉死した森兄弟の悲劇

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)でついに本能寺の変の回が来る。明智光秀(要潤)の軍が本能寺を急襲し、森乱(市川團子、森蘭丸ともいう)ら小性こしょう(小姓とも)が織田信長(小栗旬)に殉じる姿は、大河ドラマでもクライマックスとして描かれそうだ。

ドラマや小説では眉目秀麗な少年だったと描かれる森蘭丸には少なくとも5人の兄弟がおり、長兄はすでに討ち死にしており、本能寺の変では蘭丸を含め、兄弟3人が小性として討ち死にしている。父・森可成よしなりは織田家重臣であるが、信長は家臣の世襲を無条件に是認するような人間ではない。父子ともに優秀で、父が悲惨な討ち死にを遂げたからこそ、蘭丸ら兄弟を小性として取り立てたのだろう。

森可成が討ち死にする発端は、元亀元(1570)年4月の金ケ崎の退き口である。

信長の敗退を好機とみて、かつて信長に追われた近江半国守護・六角承禎じょうていや三好三人衆が反旗を翻す。6月に六角が南近江で挙兵。程なく鎮圧されたが、信長は主要部将を近江に分封して再発防止に努めた。森可成もその一人に選ばれ、南近江の宇佐山城・志賀城(滋賀県大津市)の守将となった。

落合芳幾画「太平記英勇伝七十六:森三左エ門可成」東京都立図書館所蔵、慶応3(1867)年
落合芳幾画「太平記英勇伝七十六:森三左エ門可成」東京都立図書館所蔵、慶応3(1867)年(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

森蘭丸の父は浅井朝倉に討たれた

さらに元亀元(1570)年7月には三好三人衆が摂津の野田・福島(大阪市福島区)で挙兵。8月に信長が出陣、砦を築き、鉄砲を打ち入れるなどの攻勢を強めた(野田・福島の合戦)。三好勢は和睦を申し入れたが、信長は早々に片付くと自信を深め、これに応じなかった。ここで急遽、一向宗の拠点・石山本願寺(大阪城近辺)が挙兵。三好三人衆に加担した。摂津国内の本願寺は信長の大軍勢がそのまま攻めてくるかと疑心暗鬼に駆られていたところに、浅井久政・長政父子から参陣を促され、挙兵したという。

石山本願寺が挙兵すると、浅井・朝倉連合軍がそれに呼応して3万の兵を率い、信長軍を背後から突くべく、近江坂本方面に出陣。9月、森可成は宇佐山城から打って出て坂本の防戦に努めたが、討ち死にした。

浅井・朝倉連合軍は大津を放火、次いで醍醐・山科を放火して京に迫った。信長はそれを聞いて京に撤退。近江に進むと、浅井・朝倉連合軍は慌てて比叡山に退避した。信長は比叡山の僧侶に対して浅井・朝倉連合軍の引き渡しを求め、それができないなら根本中堂こんぽんちゅうどう山王さんのう二十一社を焼き払うと宣言した。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」と言って、針を飲ませた実例はない。比叡山は単なる脅しと高をくくっていたが、信長は言行一致。ウソをつかなかった。かくして比叡山焼き討ちが実行されたのである。