実は秀長の息子の妻だった
森千丸忠政の後妻となった秀長の養女は、はじめ秀長の子・小一郎の妻だったが、小一郎が早くに亡くなったため、その養女になったらしい。実父は那古野因幡守敦順である。『群書系図部集』所収の「織田系図」によると、敦順の妻は信長の一族・津田家の出身で、中川八郎右衛門重政、津田隼人正盛月、木下雅楽助の姉妹にあたる。
そもそも、木下藤吉郎秀吉がなぜ木下姓を名乗ったのかは定説がなく、従来は実父が木下姓だったからという説が主流だったが、黒田基樹氏は『明智軍記』の記述から「信長馬廻衆の木下雅楽助の寄子に配属され、(中略)寄親の木下雅楽助から木下苗字を与えられ」(『羽柴秀吉とその一族』)たとする。
子孫は播磨赤穂藩2万石の大名に
敦順の次男・那古野山三郎は「勝れて美麗」「無双の美少年」「美麗の器量」と称され、歌舞伎の創設者・出雲の阿国を妻にしたとの俗説がある。那古野家は、秀吉の甥・小一郎の妻に釣り合うような家柄には到底思えないが、その兄が「美麗の器量」だったのであれば、かなりの美人だった可能性が高い。小一郎の死後、養女として秀長の許に留め置かれたのも、そういった文脈から考えると納得がいく。
なお、森忠政は慶長5(1600)年2月に兄の遺領ともいうべき北信濃四郡13万7500石を与えられて川中島城主となり、慶長8年2月に美作津山藩18万6500石に転封となった。先述のように養孫・森衆利が発狂していったんは改易されたが、養父(忠政の養子)の森長継に改めて播磨赤穂藩2万石が与えられ、子孫は同地を領したのだ
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。