森家は美濃攻め前からの家臣だった
森可成は美濃国羽栗郡蓮台村(岐阜県羽島郡笠松町田代)に住み、「初め齋藤氏に仕えるというが」、弘治元(1555)年頃にはすでに信長に仕えていたといわれている。
信長は、永禄4(1561)年以降の美濃攻めに旗本クラスを投入し、さらに永禄8(1565)年に丹羽長秀・木下藤吉郎らを主力として東美濃を攻略。森可成が具体的にどのような活躍をしたのかは不明であるが、美濃国可児郡、烏峯城(烏峰城)を与えられ、兼山城(金山城、岐阜県可児市兼山町)と改称した。
永禄11(1568)年10月に信長が上洛すると、柴田勝家・蜂屋頼隆・坂井政尚とともに勝龍寺城を攻め落とし、柴田ら4人で京都の政務にあたった。
元亀元(1570)年4月に越前朝倉討伐に参陣。長男・森可隆が討ち死にしている。そして、半年も経たないうちに、森可成も宇佐山城下で討ち死にしてしまったのだ。
森家は源義家の六男・義隆を祖とし、平安末期に義隆が相模国愛甲郡森(神奈川県厚木市近辺)に住み、子孫が森姓を名乗った。ちなみに、鎌倉時代に大江広元がこの地を領し、四男・季光が相続してその子孫が毛利(森に近い読みの)姓を名乗っている。
蘭丸は三男、6人兄弟の5人が戦死
可成の母は大橋和泉守重俊(信重)の娘で、大橋家は尾張の西端・津島を拠点として西美濃にも勢力を広げていた。大橋家は信長の姉妹と婚姻を結んでおり、その関係から森可成は織田家に仕えたのかもしれない。さらに、可成の妻は林佐渡守通勝の姉妹に当たる。一般には林通勝=林秀貞といわれているが、偽系図の可能性が高い。
可成には少なくとも六男三女がおり、男子は末男・森忠政(千丸)を除いて全員討ち死にしている。
・長男 伝兵衛可隆(1552~1570)手筒山合戦で討死。
・次男 武蔵守長可(1558~1584)妻は池田恒興の娘。小牧長久手で討死。
・三男 蘭丸成利 (1565~1582)本能寺の変で討死。
・四男 坊丸長隆 (1566~1582)本能寺の変で討死。
・五男 力丸長氏 (1567~1582)本能寺の変で討死。
・六男 千丸忠政 (1570~1633)妻は中川清秀の娘、豊臣秀長の養女。
・長女 坂井久蔵の妻、のち関成政に再縁
・次女 青木秀重の妻
・三女 木下勝俊(羽柴秀吉の義甥)の妻