大河ドラマや映画では、織田信長は本能寺で自刃しその遺体は寺と共に焼け落ちる。しかし、作家の安部龍太郎さんは「歴史書にも記されているように、信長の遺骨は皇室と縁の深い上人の手によって運ばれ、阿弥陀寺に納められたという。上人が秀吉には遺骨を渡さなかったことから、本能寺の変の真相について、ある仮説が浮かぶ」という――。

※本稿は、安部龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

信長の遺体は本能寺で焼けてなくなったわけではない

本能寺の変で自刃した信長の遺体は、ついに発見されなかったというのが定説になっていますし、そう思っておられる方も多いのではないでしょうか。

実は私自身も、長年そう思い込んでいました。

しかし歴史書をひもとき、取材を重ねていくうちに、信長の「遺体の行方」がわかってきました。

それは残された人間たちの思惑と野望が見え隠れする、まさにあの本能寺の変をとりまく人間関係の複雑さを物語るものでした。

はじまりは20数年前、ある歴史書に「信長の墓は京都の阿弥陀寺にある」という一節を見つけたことです。

信長の墓地としてもっとも有名なのは、豊臣秀吉が大徳寺に造った総見院です。また、安土城や本能寺にも墓や供養塔が建てられています。

しかし、阿弥陀寺の墓というのは初耳だったので、さっそく取材に出かけることにしました。

京都市上京区の阿弥陀寺にある「織田信長公本廟」

上京区寺町の阿弥陀寺の前でタクシーを降りると、門前に「織田信長公本びょう」という碑が堂々と立っていました。しかも墓所となった由来を記した立て札までありました。

なぜ、阿弥陀寺が信長の墓所となったのでしょうか。

阿弥陀寺、京都市上京区
阿弥陀寺、京都市上京区(画像=Brakeet/CC-Zero/Wikimedia Commons

それは、開山清玉上人の活躍のゆえでした。

改定史籍集覧』に収録されている「信長公阿弥陀寺由緒之記録」には、清玉上人が信長の遺骨を運び出したいきさつが次のように記されています。

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こったことを知った清玉上人は、20人ほどの供を連れて駆け付けました。

しかし、すでに信長は自刃した後でした。清玉上人が悄然と帰りかけた時、数人の武士が墓地の後ろの藪で何かを燃やしているのに気づきます。

顔見知りの信長の近習たちなのでわけを尋ねると、信長を荼毘だびに付しているのだということです。

信長が「遺体を敵に渡すな」と言い残して切腹したため、こうして火葬して自分たちも後を追うのだと答えました。