本能寺で殉死した森兄弟の悲劇
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)でついに本能寺の変の回が来る。明智光秀(要潤)の軍が本能寺を急襲し、森乱(市川團子、森蘭丸ともいう)ら小性(小姓とも)が織田信長(小栗旬)に殉じる姿は、大河ドラマでもクライマックスとして描かれそうだ。
ドラマや小説では眉目秀麗な少年だったと描かれる森蘭丸には少なくとも5人の兄弟がおり、長兄はすでに討ち死にしており、本能寺の変では蘭丸を含め、兄弟3人が小性として討ち死にしている。父・森可成は織田家重臣であるが、信長は家臣の世襲を無条件に是認するような人間ではない。父子ともに優秀で、父が悲惨な討ち死にを遂げたからこそ、蘭丸ら兄弟を小性として取り立てたのだろう。
森可成が討ち死にする発端は、元亀元(1570)年4月の金ケ崎の退き口である。
信長の敗退を好機とみて、かつて信長に追われた近江半国守護・六角承禎や三好三人衆が反旗を翻す。6月に六角が南近江で挙兵。程なく鎮圧されたが、信長は主要部将を近江に分封して再発防止に努めた。森可成もその一人に選ばれ、南近江の宇佐山城・志賀城(滋賀県大津市)の守将となった。
森蘭丸の父は浅井朝倉に討たれた
さらに元亀元(1570)年7月には三好三人衆が摂津の野田・福島(大阪市福島区)で挙兵。8月に信長が出陣、砦を築き、鉄砲を打ち入れるなどの攻勢を強めた(野田・福島の合戦)。三好勢は和睦を申し入れたが、信長は早々に片付くと自信を深め、これに応じなかった。ここで急遽、一向宗の拠点・石山本願寺(大阪城近辺)が挙兵。三好三人衆に加担した。摂津国内の本願寺は信長の大軍勢がそのまま攻めてくるかと疑心暗鬼に駆られていたところに、浅井久政・長政父子から参陣を促され、挙兵したという。
石山本願寺が挙兵すると、浅井・朝倉連合軍がそれに呼応して3万の兵を率い、信長軍を背後から突くべく、近江坂本方面に出陣。9月、森可成は宇佐山城から打って出て坂本の防戦に努めたが、討ち死にした。
浅井・朝倉連合軍は大津を放火、次いで醍醐・山科を放火して京に迫った。信長はそれを聞いて京に撤退。近江に進むと、浅井・朝倉連合軍は慌てて比叡山に退避した。信長は比叡山の僧侶に対して浅井・朝倉連合軍の引き渡しを求め、それができないなら根本中堂・山王二十一社を焼き払うと宣言した。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」と言って、針を飲ませた実例はない。比叡山は単なる脅しと高をくくっていたが、信長は言行一致。ウソをつかなかった。かくして比叡山焼き討ちが実行されたのである。
森家は美濃攻め前からの家臣だった
森可成は美濃国羽栗郡蓮台村(岐阜県羽島郡笠松町田代)に住み、「初め齋藤氏に仕えるというが」、弘治元(1555)年頃にはすでに信長に仕えていたといわれている。
信長は、永禄4(1561)年以降の美濃攻めに旗本クラスを投入し、さらに永禄8(1565)年に丹羽長秀・木下藤吉郎らを主力として東美濃を攻略。森可成が具体的にどのような活躍をしたのかは不明であるが、美濃国可児郡、烏峯城(烏峰城)を与えられ、兼山城(金山城、岐阜県可児市兼山町)と改称した。
永禄11(1568)年10月に信長が上洛すると、柴田勝家・蜂屋頼隆・坂井政尚とともに勝龍寺城を攻め落とし、柴田ら4人で京都の政務にあたった。
元亀元(1570)年4月に越前朝倉討伐に参陣。長男・森可隆が討ち死にしている。そして、半年も経たないうちに、森可成も宇佐山城下で討ち死にしてしまったのだ。
森家は源義家の六男・義隆を祖とし、平安末期に義隆が相模国愛甲郡森(神奈川県厚木市近辺)に住み、子孫が森姓を名乗った。ちなみに、鎌倉時代に大江広元がこの地を領し、四男・季光が相続してその子孫が毛利(森に近い読みの)姓を名乗っている。
蘭丸は三男、6人兄弟の5人が戦死
可成の母は大橋和泉守重俊(信重)の娘で、大橋家は尾張の西端・津島を拠点として西美濃にも勢力を広げていた。大橋家は信長の姉妹と婚姻を結んでおり、その関係から森可成は織田家に仕えたのかもしれない。さらに、可成の妻は林佐渡守通勝の姉妹に当たる。一般には林通勝=林秀貞といわれているが、偽系図の可能性が高い。
可成には少なくとも六男三女がおり、男子は末男・森忠政(千丸)を除いて全員討ち死にしている。
・長男 伝兵衛可隆(1552~1570)手筒山合戦で討死。
・次男 武蔵守長可(1558~1584)妻は池田恒興の娘。小牧長久手で討死。
・三男 蘭丸成利 (1565~1582)本能寺の変で討死。
・四男 坊丸長隆 (1566~1582)本能寺の変で討死。
・五男 力丸長氏 (1567~1582)本能寺の変で討死。
・六男 千丸忠政 (1570~1633)妻は中川清秀の娘、豊臣秀長の養女。
・長女 坂井久蔵の妻、のち関成政に再縁
・次女 青木秀重の妻
・三女 木下勝俊(羽柴秀吉の義甥)の妻
長男は「鬼武蔵」と呼ばれた猛将
可成の長男・森武蔵守長可(長一)は俗に「鬼武蔵」と呼ばれる猛将である。父が討ち死にして、わずか13歳で家督を継ぎ、兼(金)山城主となった。信忠軍に従い、天正10(1582)年の武田攻めでは、信濃飯田城、高遠城攻略に参加。武田家滅亡後の4月に北信濃四郡(高井、水内、更科、埴科)を与えられ、海津城主となる。
末っ子はケンカで実家に戻された
兼山城主は弟の森蘭丸が継いだが、6月の本能寺の変で弟の坊丸・力丸とともに討ち死にを遂げた。かれら兄弟はみな信長側近の小性として使えていたが、末弟の千丸は同僚といさかいを起こして母の元に戻され、難を逃れた。
本能寺の変の折、長可は越後上杉家と対峙しており、変を聞くとすぐさま撤退して兼山城に戻った。妻が池田恒興の長女だったので、本能寺の変後は義父とともに秀吉につき、小牧・長久手の合戦でともに討ち死にを遂げた。出陣に際して、娘は武士ではなく医者に嫁がせるように遺言をしたためたことで知られているが、『寛政重修諸家譜』など諸系図に娘の記載はない。
森千丸忠政の後妻は「秀長の養女」
長可が討ち死にすると、唯一生き残った末男の森千丸忠政がわずか15歳で家督を継ぎ、兼山城主となった。和田裕弘氏は「忠政は、柴田勝家の娘を妻とした塙直政の養子となった。これは、可成が勝家と親しかった関係からだろう」(『織田信長の家臣団』)と記している。
妻は中川清秀の次女で、清秀の長女が池田輝政(恒興の次男)夫人だったことから縁談が進んだものと思われる。ただし、清秀の娘は第一子(長女)出産の後に死去したようで、後妻に豊臣秀長の養女を迎えている。
森忠政は慶長5(1600)年2月に兄の遺領ともいうべき北信濃四郡13万7500石を与えられて川中島城主となり、慶長8(1603)年2月に美作津山藩18万6500石に転封となった。養孫・森衆利が発狂して改易されたが、養父(忠政の養子)の森長継に改めて播磨赤穂藩2万石が与えられ、子孫は大名として存続した。
赤穂浪士で有名な赤穂藩は浅野内匠頭長矩の刃傷事件で改易になったが、最終的には森家が受け継ぎ、幕末まで続いていったのだ。
実は秀長の息子の妻だった
森千丸忠政の後妻となった秀長の養女は、はじめ秀長の子・小一郎の妻だったが、小一郎が早くに亡くなったため、その養女になったらしい。実父は那古野因幡守敦順である。『群書系図部集』所収の「織田系図」によると、敦順の妻は信長の一族・津田家の出身で、中川八郎右衛門重政、津田隼人正盛月、木下雅楽助の姉妹にあたる。
そもそも、木下藤吉郎秀吉がなぜ木下姓を名乗ったのかは定説がなく、従来は実父が木下姓だったからという説が主流だったが、黒田基樹氏は『明智軍記』の記述から「信長馬廻衆の木下雅楽助の寄子に配属され、(中略)寄親の木下雅楽助から木下苗字を与えられ」(『羽柴秀吉とその一族』)たとする。
子孫は播磨赤穂藩2万石の大名に
敦順の次男・那古野山三郎は「勝れて美麗」「無双の美少年」「美麗の器量」と称され、歌舞伎の創設者・出雲の阿国を妻にしたとの俗説がある。那古野家は、秀吉の甥・小一郎の妻に釣り合うような家柄には到底思えないが、その兄が「美麗の器量」だったのであれば、かなりの美人だった可能性が高い。小一郎の死後、養女として秀長の許に留め置かれたのも、そういった文脈から考えると納得がいく。
なお、森忠政は慶長5(1600)年2月に兄の遺領ともいうべき北信濃四郡13万7500石を与えられて川中島城主となり、慶長8年2月に美作津山藩18万6500石に転封となった。先述のように養孫・森衆利が発狂していったんは改易されたが、養父(忠政の養子)の森長継に改めて播磨赤穂藩2万石が与えられ、子孫は同地を領したのだ