昭和十四年の目蒲電鉄、東横電鉄の合併を手初めに、五島慶太はつぎつぎと鉄道会社の合併を進めていった。

十四年十月、一般株主への報告として、合併が極めて合理的なものであるという趣旨の報告書を提出している。

「支那事変が第三段階の南支にまで進展するに及びまして、金融、経済その他国内百般の制度に対する統制は一段と強化せられて参りました。(中略)しかしながら、両社はよくこの時艱じかんに耐えて、目黒蒲田電鉄は一割の配当を継続し、東京横浜電鉄は一分増の九分配当をなし得るの好成績を収めることが出来ましたのは、まことに御同慶に堪えざるところであります」(『五島慶太』羽間乙彦)

厳しい統制が敷かれていたこの時代に、一割の配当ができたのは、やはり五島の経営手腕の冴えによるものと言わざるをえまい。

五島は、その後も鉄道経営を拡大していった。昭和十六年九月に小田急の社長になり、同年十一月には京浜鉄道の社長、十九年五月に京王電軌の社長になっている。京王電軌は、最後まで合併に反対した。社長である井上篤太郎が、頑強に抵抗したのである。

東急東横店
写真=時事通信フォト
2019年12月3日、東急東横店(東京都渋谷区)

代々木八幡の井上の屋敷に、当時常務だった大川博は日参し、ついに合併を承諾させた。五島は運輸通信大臣だったが、わざわざ井上を訪れて、礼を述べたという。

内務官僚の唐沢俊樹は当時をこう回想している。イギリスでは、とっくの昔にロンドンの私鉄を三社に統合してしまった。東京もそうしようというので、交通事業調整法という法律を設けて、東京郊外の私鉄を三社に整理する方針をたてた。

五島は自分の領分を整理したけれど、残った二方面を担当した社は、一向にやらないのだ……。東急の存在感は抜きんでており、同業他社に嫉視されるのも無理はない状況であった。そして、その隆盛を誇り、はばかることがなかった。

「『大東急』は、バス、百貨店、田園都市業などの諸事業を兼営する膨大な電鉄会社であったが、そればかりでなく、この間においては静岡鉄道、江ノ島電鉄、神中鉄道、相模鉄道、箱根登山鉄道、バス、トラック、タクシー等数多くの会社を設立、あるいは買収し、傍系会社又は子会社などその数は八十数社に及んで、さながら一大『電鉄王国』東急コンツェルンを形成しておったのである」(『七十年の人生』五島慶太)

東条英機内閣下の運輸大臣としての評価

昭和十八年十一月六日、五島の次男である進は、輸送指揮官として任務遂行中、機銃掃射を受けて戦死した。

「私も寝ておるとき、周りの者の顔付で予感はしておったものの、矢張り真実を伝えられた時にはがっかりした。進は体格から性質から、何から何まで非常に私に似ておって、私としても進に生き甲斐を感じておったくらいだったから、つい思わず涙を流してしまった。その時は全く人生というものに対して虚無的になっていたようである。仏教美術館でも建てて、自分の持っている古写経、仏像、絵画などを収めて、そこの番人でもして余生を送ろうかとさえ思った」(同前)

昭和十九年二月、五島は、東條内閣の運輸通信大臣になった。後年、東條首相について、五島はこう語っている。

東条英機
五島を大臣に抜擢した東条英機(写真=Fumeinab sakuseir-shau h/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

「東條という人は、とにかく単純でね。稚気、愛すべきもんです。やることは一生懸命で、裏がない。『木造船で橋をかけろ』というくらいで……。それから、鉄のない時分だもんですから、『木か竹でレールをつくれ』とかね」(『五島慶太』)

宮中に伺候したところ、石渡荘太郎と、内田信也が来ていた。三人揃って、親任式が行われた。東條内閣で書記官長を務めた星野直樹は、「閣僚」としての五島を高く買っている。

「閣議においては、余計なことは一つもいわず、必要な発言だけに止まった。また、政治的な動きは一切しなかった。戦局、ますます不利となったときも、東條首相の努力に無言の支持を与え、十九年夏、ついに首相が辞職を決定したときは、静かにこれに賛成、自分もそのまま官職を去って、再び本来の鉄道業に帰っていかれた」(同前)

昭和二十二年八月、五島は、運輸通信大臣就任その他の理由で、公職追放処分を受けた。追放解除に至るまで、五島は思う存分、茶を愉しんだ。