「松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった」

二十九歳で、東大法科を卒業。四年遅れたわけだが、同期は錚々たる顔ぶれ――重光葵、芦田均、石坂泰三、正力松太郎、河上弘一――だった。

文官試験に合格し、加藤の周旋で農商務省に入ったが、山本権兵衛内閣が緊縮政策を推進したため仕事らしい仕事がなく、鉄道大臣の床次竹二郎の周旋で、鉄道院に入った。鉄道院に入る直前、古市公威――内務省土木局長、枢密顧問官――の媒酌で、久米民之助の長女五島万千代と結婚した。

五島は久米の母方の姓で、万千代との結婚は、五島家を再興するという含みがあった。原敬内閣が成立すると、五島は高等官七等という身分になった。七等は役所では、課長心得という身分であるが、この「心得」が、五島には気に入らなかった。稟議書に「課長心得」と書いてあると、五島は、そのたび「課長心得」の「心得」の二字を消して上に回したという。何度も「心得」を消していると、さすがに上司が気づいて「心得」を抹消してくれた。

人生というのは面白いもので、「心得」騒動を伝えきいた人が、五島を武蔵電気鉄道の経営者に推薦した。ところが、鉄道経営についての先達である小林一三は、五島にこうアドバイスをした。

「荏原電鉄をさきに建設して、渋沢栄一さんの田園都市計画を実施して、四十五万坪の土地を売ってしまいなさい。土地がうまく売れたら、その金で武蔵電鉄をやればいいではないか」

阪急電鉄を経営し、沿線を住宅地として分譲し、ターミナルに百貨店を設置した稀代の事業家のアドバイスに、五島は、素直に従った。

しかし、現実は厳しかった。昭和初年の大不況では、しばしば自殺の誘惑にかられたという。

「十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、みな断わられて小雨の降る日比谷公園を渋沢秀雄君とションボリ歩いたこともあった。松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった。しかし今にして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった」(『私の履歴書 経済人1』)

この苦境から、五島は「予算即決算主義」に開眼したという。

「電鉄王国」東急コンツェルンを形成してゆく

昭和九年十月、東京市長選挙に際して、選挙資金を五島が経営する目蒲電鉄が出したという投書があり、五島は市ヶ谷刑務所に収監され、半年間をそこで過ごした。

「この六カ月間の獄中生活の苦悩は、おそらく経験者でなければその心境を推察することは不可能であろう。私はこのときが人間として最低生活であった。/だが、こういうときこそ人間の日ごろの訓練とか修養とかがハッキリ出てくるものである。胆力もあり、肚もすわった人間でなかったら、あるいは悶死するようになるかもしれない。その点では私は宗教的信念をもっていた。抜くべからざる自信である。それが物をいってくると、私はむしろ健康もよくなり、ふとったくらいである」(同前)