「豊臣兄弟!」(NHK)では織田信長(小栗旬)の最期が描かれる。信長や織田家についての著作がある和田裕弘さんは「天下統一を目の前にしていた信長には、秀吉らの大名にも負けない武功があり、後を任せても安心と思える息子がいた」という――。

※本稿は、和田裕弘『織田信忠――天下人の嫡男』(中公新書)の一部を再編集したものです。

凡庸な二代目ではなかった

織田信忠のぶただ――。戦国史に興味ある人なら、その名は一度ならず耳にしたことがあろう。「天下人」織田信長の嫡男にして、信長も認める天下人の後継者でもあった。ただ、名前は聞いたことがあっても、どのような実績を残し、どのような人物だったのかを知る人は少ないだろう。その事績に比して知られている事柄があまりにも少ないことが影響していよう。

織田信忠肖像画
織田信忠肖像画(画像=総見寺所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

かつては、徳川家康の長男信康のぶやすと比較され、かなり能力が劣っているというような評価がなされていた時期もあった。信康は天正7年(1579)9月に自害したが、自害を命じたのは信長という見方もされていた。信長は、信忠よりも優秀な信康を自分の時代に処断することで、次代を担う信忠の世を安泰にしておくための命令という説もあった。しかし、近年では、信忠に対する研究も徐々に進み、こうした推測を支持する説はあまり見かけなくなった。それも当然のことで、信忠は、信康が自害した天正7年までには信康とは比較にならないほどの実績を残していたからである。信康どころか、他の戦国大名と比較しても見劣りするとは思えない。

信忠は決して凡庸な二代目ではなかった。本能寺の変で信長に殉じたが、もし生き長らえていたなら、どれほどの成長を遂げたのだろうか。大成した姿を想像するのが楽しみな武将の一人でもある。総合的な能力の判断は難しい面もあるが、こと合戦においては、当時では最大規模の軍団を指揮するなど、稀有な経験も積んでいた。

合戦で総大将として実績を残す

天正5年(1577)8月、戦国の梟雄とも謳われる松永久秀が信長に謀反し、難攻不落の信貴山城へ籠城した。信長にとってはかなりの危機でもあった。この時の四囲の状況を見ると、西国では毛利氏が将軍足利義昭を奉じて上洛準備を着々と進めており、北国ではそれまで友好関係だった上杉謙信が北陸を南下する勢いを見せ、東国方面では長篠の戦いで大勝したとはいえ、武田勝頼が巻き返しを図っており、南方では大坂本願寺が頑強に抵抗を続けているなかでの謀反だった。

長引けば「織田政権」の崩壊にもつながる可能性もあったが、信忠が総大将となって織田軍を率い、10日ほどで信貴山城を攻略した。信貴山城攻めは、信長の「天下統一」過程の攻略戦の一つとしてそれほど評価されていないようだが、とかく喧伝されがちな羽柴(豊臣)秀吉の武功と比べても遜色のないものだった。この武功により、信忠は従三位左近衛中将に叙任されてもいる。