信長はなぜ突然、上洛したのか
天正10年(1582)5月29日、信長は小姓衆など小人数の従者を従えただけで上洛した。本能寺の変は、信長の油断と評される向きもあるが、信長が小人数で移動することはそれほど珍しくはなかった。上洛時には、これまで蒐集してきた大量のコレクション、茶の湯道具を持参していた。西国攻略後の布石の一つとして博多商人の島井宗室に披露することが狙いだったともいわれる。
今回の上洛は、秀吉の援軍要請に応じたもので、武田攻めでは陣頭指揮を執る機会はなかったが、今度は親征して毛利氏、長宗我部氏を一挙に葬り、九州へも進軍する予定を立てていた。
信忠は京都で出迎えた。もともと信忠は家康一行とともに堺に下向して接待する予定だったが、信長の出馬を聞いて、急遽、京都で信長の上洛を待つことにした。これが運命の岐路となった。信長の出馬は、後継者の信忠ですらこの時点まで把握できていなかった。どうにも慌ただしい出馬だったようである。この間の消息を記している信忠の書状がある(『小畠文書』)。
信忠の書状を光秀の家臣が入手?
尚々、家康は明日大坂・堺、罷り下られ候、
中国表、近々御馬を出ださるべき由に候条、我々堺見物の儀、まず遠慮致し候、一両日中に御上洛の旨に候間、ここにあい待ち申し候、この旨早々御諚を得られ、申し越さるべく、委曲様躰、使いに申し含め候条、口上申すべく候、謹言、
五月二十七日
信忠(花押)
森乱殿
近々、中国方面へ出馬されるとのことなので、堺見物の予定は取りやめることにした。今日か明日に上洛されるとのことなので京都で待つことにする。このことを早々に伝え、許可を得て返事をするように、詳しいことは使者から伝える、という内容である。追伸で家康が明日28日、大坂、堺へ下向する旨も伝えている。
森乱(乱法師)は、信長の小姓として知られる「蘭丸」(蘭丸と記した良質な史料は確認されていない)、諱は成利。森可成の三男で、長可の弟である。この文書は光秀の家臣の小畠氏に伝わったものと思われる。光秀は信長の動向に注視し、この情報を入手していた可能性が高い。『総見院殿追善記』にも、光秀は信長の行動を監視させるために人を派遣していた旨の記述がある。


