※本稿は、和田裕弘『織田信忠――天下人の嫡男』(中公新書)の一部を再編集したものです。
本能寺の変、信長・信忠最期の日
6月2日。本能寺の変である。織田信忠最期の日でもある。日本史上でも大事件として知名度も高いが、焦点となるのは光秀の動機をめぐってのことが多い。
信長をめぐる四囲の状況を概観しておくと、東国は、武田氏を滅亡に追い込んだことで、「残るのは越後国のみとなったが、同国も早々に服従するように思われる」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)状況にあった。東北については、伊達家をはじめ誼を通じてきている大小名も多く、当然、表立って敵対している大名はいない。関東方面も北条氏が靡いているほどであり、あからさまに歯向かう大名はこれまた存在しない。
関東から東北にかけては上野国に入った滝川一益が管轄し、北陸方面軍の柴田勝家と連携しながら、上杉景勝を追い詰めつつあった。上杉氏は滅亡寸前であり、景勝も覚悟を決めていたほどである。
西国方面では、毛利氏が敵対していたが、一門衆から織田家へ内通する者が出るなど家中で内部分裂を始めており、水軍の主力である村上氏も羽柴秀吉の工作で分裂、残る道は滅亡か降伏しかない状況に陥っていた。四国方面については、長宗我部氏と決裂し、三男信孝を総大将とした四国渡海軍を派遣する準備を進めていた。彼我の軍事力を比較すると、長宗我部氏を屈服させるのはそれほど困難な軍事作戦ではなかったと思われる。
天下統一目前、光秀はいつ決断したか
九州方面は、大友氏が誼を通じてきており、島津氏も信長を上位権力者と認め、信長の威令に靡く姿勢を示していた。九州を三分する勢いを見せていた龍造寺氏も織田家に音信してきており、九州攻めをする必要もなかった。信長は基本的に敵対しない限り、攻撃を加えることはないので、ゆるやかな統一は間近に迫っていた。
さて、明智光秀だが、徳川家康一行の接待を終え、羽柴秀吉の援軍要請に応ずるべく西国への出陣準備として、領国の近江坂本を経由し、5月26日には丹波亀山城へ帰国していた。28日、愛宕山へ参籠し、西坊で連歌を興行した。発句は有名な「ときは今あめが下知る五月哉」である。「下知る」は「下なる」ともいわれる。「下知る」であれば、「下治る」などと当て、天下を統治、天下を取るという意味に解釈されている。
光秀は6月1日夕刻、信長の閲兵を受けるため、と欺いて亀山城を出陣した。明智家の家老ともいうべき明智秀満、同次右衛門、藤田伝五、斎藤利三、三沢(溝尾)庄兵衛の5人に謀反のことを諮り、賛意を得た。女婿の秀満には事前に内談していたともいう(『政春古兵談』)。



