信長は最初、息子たちを疑った?
夜明け前に1万数千の軍勢で本能寺を包囲。信長も小姓衆も当初は下々の喧嘩と思っていた。信忠の謀反を疑ったという異説もある。信長は普段から信忠のことを「殿、殿」と呼んでいたが、この時も「殿が騙されて謀反か。謀反には早すぎる」と口走ったという。当時の風潮からすると、至極当然の発想であろう。また、三男信孝が謀反したと思ったという説もある。これまたそれほど無理な推測でもない。京都で信長に謀反を起こせる軍勢を率いているのは彼らしかいないと思ったのも無理はない。
信長は自ら弓や鑓を取って迎撃したが、衆寡敵せず、しかも不意打ちという要素もあり、最期を悟り、殿中奥深く入り自害して果てた。最期の戦闘場面は、『信長公記』や宣教師の記録に詳しい。本能寺急襲で主導的役割を果たした斎藤利三の最期と比較すると、じつに潔い。
本能寺の変を聞きつけた信忠の行動についても、『信長公記』や宣教師の記録に詳しい。伝聞ながら緊迫感が伝わってくる。京都の公家や大和の僧侶の日記類にも断片的ながら最期の様子が記されている。これらの記録を総合的に取り入れて信忠の最後の奮戦を再現してみよう。
京都を脱出するか、籠城するか
妙覚寺に宿泊していた信忠は、本能寺の変が勃発した時、まだ就寝中だった。本能寺の異変を知った信忠は、すぐさま本能寺へ駆けつけようとした。しかし、途中の路上で京都所司代の村井貞勝父子3人と出会った。本能寺は光秀軍が重囲しており、すでに焼け落ち、光秀軍は信忠の襲撃に向かってくるだろうとのことだった。防御力の弱い妙覚寺では防ぎきれないため、貞勝は二条御新造での籠城を勧めた。二条御新造は、もともとは信長の京都邸ともいうべきものだったが、3年前に誠仁親王一家に譲っていた。籠城した信忠軍は、光秀軍と交渉し、親王一家を御所へ退去させた。
この時、籠城するか、京都を脱出するかという議論があったが、信忠は「これほどの謀反を企てるほどであるから、落ち延びることはできないだろう。雑兵に打ち取られては後世の物笑いになり、無念である」と発し、籠城に決した。籠城を進言したのは団忠正という説もある。13年前の永禄12年(1569)正月、六条本国寺に籠城した足利義昭が三好軍に包囲されながら持ちこたえた前例もあり、信忠には1日か2日持ちこたえられれば援軍が到着し、光秀軍を追い払えるという微かな勝算があったのかもしれない。

