信長は最初、息子たちを疑った?

夜明け前に1万数千の軍勢で本能寺を包囲。信長も小姓衆も当初は下々の喧嘩と思っていた。信忠の謀反を疑ったという異説もある。信長は普段から信忠のことを「殿、殿」と呼んでいたが、この時も「殿がだまされて謀反か。謀反には早すぎる」と口走ったという。当時の風潮からすると、至極当然の発想であろう。また、三男信孝が謀反したと思ったという説もある。これまたそれほど無理な推測でもない。京都で信長に謀反を起こせる軍勢を率いているのは彼らしかいないと思ったのも無理はない。

織田信忠肖像画
織田信忠肖像画(画像=総見寺所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

信長は自ら弓ややりを取って迎撃したが、衆寡敵せず、しかも不意打ちという要素もあり、最期を悟り、殿中奥深く入り自害して果てた。最期の戦闘場面は、『信長公記』や宣教師の記録に詳しい。本能寺急襲で主導的役割を果たした斎藤利三の最期と比較すると、じつに潔い。

本能寺の変を聞きつけた信忠の行動についても、『信長公記』や宣教師の記録に詳しい。伝聞ながら緊迫感が伝わってくる。京都の公家や大和の僧侶の日記類にも断片的ながら最期の様子が記されている。これらの記録を総合的に取り入れて信忠の最後の奮戦を再現してみよう。