切腹後、遺体を隠すように命じた
切腹後、縁の板を外してその中へ遺骸を隠すよう指示。新介は命令通りに信忠を介錯したあと信忠の遺骸を隠したため、光秀軍は見つけることはできなかった。しかし、新介は介錯したあと、自害する覚悟だったものの、なぜか逃げ延びた。井戸に隠れていたともいう。世間の評判の手前もあり高野山で謹慎していたが、のちに秀吉からの誘いで下山し、福島正則に仕えた。
宣教師の記録には、「邸内の人々は選りすぐった大身たちであったのでよく防戦し、一時間以上に及んだが、光秀軍の方がきわめて多勢でよく武装しており、鉄砲を多く備えていたため、これに抵抗することは困難であった』と状況説明し、「しかし、世子(信忠)はきわめて勇敢に戦い、鉄砲と矢によって幾つもの傷を受けた。ついに明智の多勢の軍勢が勝って(邸内に)入り、放火して多くの者が焼け死んだが、彼らに混じって世子もまた、その他身分のある武士や兵士たちもともに同じ最期を辿った」と伝えている。
最後に明智の兵を斬りまくった
『総見院殿追善記』は信忠の武勇を次のように劇的に描く。
最期を悟った信忠は、一番に切って出て、向かってくる敵兵17、18人を切り伏せた。信忠に続いて切って出た面々も、我れ劣らじと火花を散らして戦い、敵勢を撃退した。その時、光秀軍から明智孫十郎、杉生三右衛門、加成清次、そのほか屈強の兵数人が名乗って引き返し切って掛かってきた。これを見た信忠は、その真ん中に切って入り、常日頃から稽古していた兵法、古流・当流、秘伝の術、英傑一太刀までも奥儀を尽くして切り廻り、孫十郎を薙ぎ伏せ、清次、三右衛門の首を丁々と打ち落とした。近習の面々も力の限り切り合い攻め入り、敵の人数ことごとく討ち果たし、最後の合戦を遂げた。
伝記作者である大村由己一流の賛辞である。
奈良の僧侶の記録には、伝聞ながら「門前で三度まで敵を撃退したが、多勢に無勢、ついに討死した」「城介殿御働き比類なき由也」など信忠の奮戦が記されている。『信長公記』には、二条御新造で信忠に殉じた60人余り(伝本によって人数が異なる)の交名(人名を列挙した文書)が列記されている。当時、信忠は徳川家康に同行して難を逃れたという噂もあった(『外宮引付』)。
信長も経験したことのない世界を拓く可能性を持った未完の大器の最期であった。


