謀反人となった弟・信勝の遺児、織田信澄
大河ドラマ「豊臣兄弟!」。6月28日放送の第25回「変事の予兆」は、いよいよ来るべき本能寺の変に向けての序章だ。1580年、ついに完成した安土城の宴席で、秀吉(池松壮亮)は小一郎(仲野太賀)に対し、城よりも信澄(緒形敦)の存在こそが信長(小栗旬)の器の大きさを示す証しだと語るのである。
信澄は、かつて信長に謀反を起こした弟・信勝の遺児。信長は、本来なら処刑されてもおかしくない信澄を柴田勝家(山口馬木也)に預けて育てた。いまや、信澄は明智光秀の娘を妻に迎え、人望も厚い。
「この人、なんかいい感じじゃないか」という印象の残る信澄。だが、その人生は戦国時代の理不尽を凝縮したような、悲惨なものになってしまうのだ。
信澄の父・織田信勝は、信長と血を分けた弟にして謀反人である。それも単なる謀反人ではない。織田家統治の初期においては、強大なライバルでもあった。
同母弟である信勝は、信長とは対照的な人物だった。父・信秀が死んだとき、信長は葬儀の場で仏前に抹香を投げつけたという。一方の信勝は、肩衣・袴をきっちり着込み、礼儀正しく振る舞ったとされる。要するに当時の評価は「素行のヤバい兄」と「折り目正しい弟」だったわけだ。
しかも信勝が継いだのは、父の居城・末森城である。柴田勝家、佐久間大学といった弾正忠家の重臣まで付けられた。この時点で、信長の家督相続は盤石でも何でもない。むしろ信勝こそが「正統派の後継者」に見えた。
弟は、信長にとって“油断できない存在”
実際、信勝はやがて自ら「弾正忠」を名乗る。これは父・信秀が用いた当主の官途名であり、「家を継ぐのは俺だ」という明確な宣言だった。兄弟は別々の道を歩み、1556年、ついに稲生で激突する。この戦いで敗れた信勝だが、母・土田御前の取りなしで一度は赦される。しかし、なおも謀反を企て、1558年、仮病を使った信長に清洲城へ呼び出されて暗殺された。
つまり信勝は、単なる「謀反を起こした弟」ではない。尾張統一の初期、信長の覇権を本気で脅かした最大のライバルだった。
『信長公記』の記述からは、信長にとって信勝陣営がもっとも油断できない存在だったことがよくわかる。その記述のひとつが、以下の部分だ。
五月廿六日に、信長と安房殿と唯二人、清洲より那古野の城林佐渡守へ御出で候。能き仕合せにて候間、御腹めさせ候はん、と、弟の美作守申し候を、林佐渡守、余りにおもはゆく存知候、三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け、討ち申すべき事、天道おそろ敷く候。とても御迷惑に及ばるべきの間、今は御腹めさせまじきと申し候て、御命を助け、信長を帰り申し候。
筆者訳:
5月26日、信長がわずかな供(安房殿=織田信光)を連れただけで、ふらりと林佐渡守の屋敷を訪ねてきた。これを見た弟の林美作守は「絶好の機会だ、ここで信長に腹を切らせよう(暗殺してしまおう)」と本気で謀った。しかし兄の林佐渡守は、「三代にわたって恩を受けてきた主筋を、おめおめとここで手にかけるのは、天の道理に背いて恐ろしい。放っておいてもどうせ没落するのだから、今はやめておこう」となだめ、信長の命を助けて帰した。

