「健康に良い数字」を無自覚に信じている人は多いだろう。しかし常識とされる値の裏には、意外な真実がある。最新データの正しい受け止め方を、東京大学大学院教授に聞いた――。

数十年もの論争の末に数値の評価が変化

医学の世界で長い間信じられてきた数字が、あるとき大きく覆される……これは非常によくあることと言っていいでしょう。「高血圧」と診断される血圧の数値、がん生存率、BMI(体格指数)の標準値などさまざまな数値が、時には塗り替えられ、時には正反対の数値に覆されてきた歴史があります。

康永秀生さん
康永秀生 Hideo Yasunaga
東京大学大学院医学系研究科教授。1994年に東京大学医学部を卒業後、病院勤務などを経て現職。専門は臨床疫学・医療経済学で、大規模データベースを用いた臨床疫学を研究テーマとしている。著書に『すべての医療は「不確実」である』(NHK出版新書)など。

これは、医学が進歩する過程における、当然の変更と言えるのです。従来行われていた研究手法よりもさらに新しく厳密なアプローチが登場し、それを用いて過去の定説を再検討してみると「実は全然違っていた」という結果が出て数値が修正される。医学の歴史とは、言ってみればこのプロセスの連続です。つまり異なる事実が出てくるのは、医学が前へ進んでいる証拠と考えられるのです。

なかには数十年にわたる論争が続き、そのつど数値が修正される定説も少なくありません。あとで詳しく説明しますが高血圧と診断される血圧の基準値は、50年以上前は年齢に90を足した値とされていたことも。つまり90歳の人なら、収縮期血圧(最高血圧)が180mmHg未満は正常値だったこともあったのです。その後研究が進み、ご存じのように今は、140mmHg以上なら高血圧と診断されるほか、さらに低い130mmHgの血圧と心臓病との関係も研究されています。

もうひとつ、数値が大きく覆された例として知られているのが、「女性ホルモン補充療法と心筋梗塞のリスク」に関する定説です。女性の更年期障害の治療としてのホルモン療法は特に欧米で普及し、一時は「ホルモン療法は心筋梗塞の発症リスクを約40〜50%減らす」ことが多くの観察研究の結果、報告されていました。

ところがその後、研究対象者を2つ以上のグループにランダムに振り分ける新しい手法の研究が行われるようになると、定説は覆り、ホルモン療法が心筋梗塞の発症を予防するどころか、血栓症などのリスクが上昇する傾向がわかってきました。

さらに最終的に落ち着いた現在のガイドラインでは、閉経直後の比較的若い女性であれば、血管がまだ柔らかくダメージを受けていないため、ホルモン補充をしても心筋梗塞のリスクは上がらない。しかし閉経から10年以上経過した高齢女性が始めると、硬くなった血管の内膜にあるプラークが崩壊し心筋梗塞のリスクを高めると結論づけられました。

ひとつの定説の裏には、これほど長い研究の歴史があったのです。

同時に、このような定説が覆される理由についての研究も進んできました。長年信じられてきた「健康の常識」の背景には、人々の「そうであってほしい」という願望や思い込みに加え、研究段階で生じる3つのバイアス(歪み)が生まれる可能性があることがわかっています。

●選択バイアス

研究の対象者をリクルートする際に発生する偏り。対象者にアンケート調査を行うと「そもそも健康への関心が高い人」ばかりが集まり、関心のない人が排除されてしまうことも。特殊な一集団だけが選択的に選ばれて、データが歪んでしまうこと

(構成=福光 恵 図版作成=大橋昭一)