「織田信重」と名乗っていた
ところが……この『寛政重修諸家譜』は、本能寺の変から230年以上も後、文化年間に幕府が編んだ系譜集だ。一次史料ではなく、信用度は低い。
現に、さきほど言及した「永禄7年正月元服」という記述自体、近年の研究では否定されている。同時代の記録では、信澄は1574年の時点でなお「御坊」「津田坊」という幼名で呼ばれており、実際の元服は天正初年ごろとみるのが現在の通説とされている。
となると、信澄は本当に厚遇されていたのか?
誉田航平「織田七右兵衛尉信重の基礎的研究」(「駒澤史学」第101号、2023年)は、一次資料をもとに、新たな信澄像を描き出している。この最新研究が突きつけてくる事実は、なかなかに衝撃的だ。
誉田論文が、信澄本人が発給した書状や、同時代の公家・茶人の日記を網羅的に洗い直して明らかにしたのは、こういうことだ。この最新研究で、浮かび上がるのは、まず名前だ。
信澄の発給文書は4通現存する。そのすべてに記された署名は、「織田七右兵衛尉信重」。つまり、本人が生涯名乗っていたのは「織田信重」であって、「津田信澄」ではない。「津田」という名字も、「信澄」という諱も、本人の署名には一度も出てこないのである。これらはすべて、『信長公記』や後年の編纂物が用いた、いわば「他称」にすぎなかった。
我々が「津田信澄」という名で記憶しているこの男は、本人の感覚では、生涯ずっと「織田信重」だったというわけだ。
織田政権の中枢を担う“まぎれもない実力者”
「織田」と「津田」この二つの名字は、織田家においては明確な格差を持っていた。「織田」は本家・嫡流の名であり、「津田」は庶流に与えられた名字だとされる。後世の系譜が信澄を「津田」と呼んだのは、彼を「謀反人の子で、あくまで庶流」という棚に位置づけたからにほかならない。
ところが、当の本人は「織田」を名乗っていた。本家と同じ名字を許され、嫡流に連なる一門として振る舞っていた。一次史料がそれを証明している。
生きては「織田」を名乗り、死しては「津田」と呼ばれる。名前ひとつ取っても、この男は自分の意志とは無関係に勝手に呼ばれたということか。
一方で、誉田論文は一次史料をもとに「謀反人の子のわりに優遇された」どころか、織田政権の中枢を担う、まぎれもない実力者だったことも明らかにしている。
まず、近江・高島郡の支配。信澄は浅井氏の旧臣・磯野員昌の養子に入ったとも伝わり(論文は養子入りの確証は乏しいと慎重だが)、員昌が信長の叱責を受けて出奔した1578年2月以降、高島郡全域の一職支配を任された。この高島郡こそ、大溝城のある土地である。

