AIに相談すれば、自分に都合のいい言葉を何でも返してくれる。そんな現代において、異なる経験をしてきた他人同士が通じ合うことはできるのか。日本人の生き方を問う、2人のベストセラー作家が語り合った。
養老 孟司×藤原正彦
養老 孟司(ようろう・たけし)●1937年生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。『唯脳論』『バカの壁』『ものがわかるということ』など著書多数。
藤原正彦(ふじわら・まさひこ)●1943年生まれ。数学者。お茶の水女子大学名誉教授。東京大学理学部数学科大学院修士課程修了。『国家の品格』をはじめ、著書多数。

なぜ言葉はわかるのに相手と通じ合えないのか

【養老】他人と話が通じるとか通じないとかいったお題をいただくと、いつも前提から話をはじめてしまうんですが、そもそも僕は「話が通じる」ということのほうが不思議だと思うんです。「いったい何が通じているのだろう」ということが昔から気になっていました。『バカの壁』の帯には、〈「話せばわかる」なんて大うそ!〉と書いてあります。あれは編集者が考えたコピーで、僕の原稿からそういうメッセージを感じ取ったんだろうと思います。

僕は虫が好きなので、誰と対話するときもだいたい虫の話をするんですけれど、そんな話が相手に通じているはずがない。せいぜい「養老は虫が好きだ」ということが相手に伝わっているだけです。

僕は動物も好きなのですが、彼らは言葉をしゃべらない。だけど、何か通じていると感じるところがある。言語化が大事だとよく言いますが、世の中は言語だらけになってしまっているじゃないですか。生成AIを多用する人もそうで、「言葉にできないことはない」と思い込んでいるんじゃないですかね。冗談じゃないですよ。

【藤原】数学では言葉というのは厳密に定義されています。それに対して社会で使われる言葉には厳密な定義が何ひとつありません。たとえば「命は尊い」と言いますが「命とは何か」「尊いとは何か」は人によって、対象も重みもまったく違います。だから、相手と言葉によって通じるということは、原理的にありえないと私は思っています。

我々が「話が通じた」と感じるのは、たいてい相手の言うことが「まあ、そんなものかな」と思えたときではないでしょうか。完全に納得したというより、「受け入れてもいいか」と思えたときに「通じた」と言っているような気がします。

では、定義が厳密に共有されている数学者同士なら話は通じるのかというと、まったく通じません。少しでも専門が違うと、まるで火星人がしゃべっているのと同じに聞こえてしまいます。たとえば「アーベル多様体」なんて言っても、代数的整数論や数論幾何学を専門にする者同士なら通じますが、ほかの数学者には何がなんだかわからない。というわけで、私は「ほとんど誰とも話は通じない」と思っています。

【養老】藤原さんに数学の話をされても、普通の人には通じるはずがありませんからね。

虫捕りが好きな若い知り合いがいまして、面白いことを言っていましたよ。虫を捕ろうと思って森に入っても、最初はまったく見あたらない。ところが座ってしばらく待っていると、自分が森と一体化していくのを感じる。すると、虫のほうから自分に寄ってくるのだそうです。虫好きの僕にはとてもよくわかる話でした。

C・W・ニコルさんからも、生前に似た話を聞いたことがありました。彼は日本にいるとストレスが溜まると言って、ときどきアラスカで過ごしていたんです。カヤックで海原を一人で漕いでいると、鳥が飛んできて肩に止まる。そのうちアザラシが寄ってきて遊び始める。

永平寺のお坊さんに聞いたお話にも、同じようなものがありましたね。外で坐禅をしていたら野良猫が通るのだけれど、最初は避けて通っていた。ところが5年座り続けていたら、猫が自分の膝を踏んで通るようになったのだと。つまり人間と動物の違いを超えて、何かしらの通じるものが生まれたんだということを言っていました。

(構成=渡辺一朗 撮影=村上庄吾(養老氏)、宇佐美雅浩(藤原氏))