信長は“実子ではない信澄を重要視していた”

大溝城は、信長の安土城、光秀の坂本城、秀吉の長浜城と並ぶ、琵琶湖の水運を掌握するための要の城だった。湖を囲む拠点が相互に連携し、いざというときには後詰めし合う。その一角を、かつての謀反人の遺児が預かっていたのだ。しかも大溝城の縄張り(設計)を手がけたのは、ほかならぬ明智光秀である。

大溝城本丸天守台跡
大溝城本丸天守台跡(滋賀県高島市)(写真=Hiyotchi/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

軍事面でも、信澄の働きは際立っている。越前一向一揆攻め、石山本願寺攻め、播磨での対海賊警固、そして荒木村重の有岡城攻め……誉田論文は、こうした畿内近国を転戦する信澄の姿を、「織田軍の遊撃軍団」の一員と位置づける。とりわけ有岡城が落ちた後、信澄はその「城中警固」として入城し、戦後処理を任されている。荒木一族の処分という、極めて重い後始末を委ねられる立場にあったのだ。

極めつけは1579年の安土宗論だ。法華宗と浄土宗が信長の面前で激突したこの宗教論争で、信澄は「信長の御名代」を務めた。一門とはいえ、甥が信長その人の名代として裁定の場に立つ。これがどれほどの信任を意味するかは、言うまでもない。

誉田論文は、こうした一次史料の積み重ねから、信澄は、伯父の織田信広から役割を一部引き継いでおり、信長は実子ではない信澄を重要視していたと結論づけている。

「本能寺の変」をきっかけに広まった風聞

家中掌握のためでも、弟を討った罪悪感からでもない。信澄自身が、城ひとつ、湖の一方面、戦後処理、そして自らの名代を任せるに足る才能を備えていた。だからこそ、信長はこの甥を用いたのだ。

しかし、その最後は悲惨だった。本能寺の変が起きると、ここまで信長から厚遇されてきた信澄に、一気に疑いの目が向けられたのだ。向けられただけではない。信澄が光秀と共謀して信長を討った、という風聞が、広く広まっていったのである。

興福寺多聞院主の英俊が記した『多聞院日記』には、こうある。

信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々、惟任コレトウ七兵衛申合令生害云々、今曉之事今日四之過ニ聞へ了、盛者必衰之金言、不可驚事也、諸國悉轉反スヘキ歟、世上無常、追日現眼前ニ、様躰ハ随ニ不知、如何可成行哉、一覧ニ、(英俊 著、辻善之助 編『多聞院日記』第3巻、角川書店、1967年)


筆者訳:
信長が京都で自害(討死)したという。嫡男の信忠(城介殿)も自害したという。明智光秀(惟任日向守)と津田七兵衛(織田信澄)が示し合わせて、信長らを討ったという。今朝早くに起きたこの出来事が、今日の昼過ぎに伝わってきた。「盛者必衰」の格言どおりであり、驚くにはあたらない。これで諸国はすべてひっくり返るのだろうか。世の無常が、日を追うごとに目の前に現れてくる。詳しい状況はまだわからないが、これからどうなっていくのか。ひとまず見守るほかない。